麻布競馬場『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』読了。
ほとんどはすでにツイッター上で読んだことのある作品ばかりです。
ほぼ書き直しも無さそうな感じ。
でも、どれも完成度が高い。
ツイッター文学の最高峰ですね。
窓際三等兵さんが嫉妬するのもよく分かります。
窓際三等兵・麻布競馬場の登場以降、ツイッターでは、よくこういった「小説」を見かけることが多くなりましたが、単にご自身の人生を自虐的に書いただけのようなものも散見され、最後まで読んで後味が悪いだけだったりすることも、ままあります。
ああいったものと本書に収められた作品群との違いはどこにあるのでしょう。
本書の作品群は、一人称であっても重くないのですね。
いや、著者の人生でないから突き放した筆致でも重くならないのは当然なんですけれども。
やっぱり、「あー、あるある。」とか言いながらもフィクションで楽しみたい類のお話だからでしょうか。
いくら自虐的に語られても、別にこちらも偽悪的になって、あなたの人生そのものを消費したいわけじゃないのですよ、と。
本書の作品は、数行で一段落が終わるので非常に読みやすく、一気読みしてしまいます。
すべての段落が140字で終わるわけではもちろんありませんが、フォーマットが文体を規定してくるこの感じに心地よさを感じてしまうほどには、自分もツイ廃なんですかね。
選びぬかれた短い語群がピンポイントに人々の劣等感をえぐってくる感じが心地良いです。
心地良いのは自分がそういうところからもう降りてしまった人間だからなのであって、例えば未だに独身で、例えば麻布十番の安アパートに暮らしていて、例えばデートの予定も入っていない週末の夜とかにこの作品群を読んでいたりしたのなら、どうだったかわかりません。
あるいは、独身ではなく結婚していたとしても、例えばこの本にあるような価値観で選んだ女子で、相手も自分をそういう表層で選んだことを承知していた関係だったとしたら。
子どもが生まれてもSAPIX重課金で、それでも一向に上がってこない子供の成績とかですり減らしていたりしたら、なんて思いを馳せたりします。
最終話の「全てをお話しします」だけが書き下ろしとのことですが、この短編で著者がどのように作品を構想して執筆しているかが書かれていて興味深いです。
転校を機に身に着けた自分すらも客観視する癖と、麻布十番を中心とした散歩途中で見かけた人々の人生を決めつけて妄想する技術が合わさって、あんな作品群が出来上がるのですね。
その妄想の根拠となる数多の人生とそれに付随する感情は、今ではツイッターを覗いていればいくらでも湧き出てくるわけで、まさにツイッターで生まれ、そして育った文学です。
80年代の田中康夫の作品は、リアリティを持つフィクションの体を取ってはいるものの、読む人が読めばモデルが誰かわかったといいます。
それくらい、彼の周りの非常に狭い範囲の人々の交流の中で生み出されたものだったのでしょう。
それに対し今日では、ツイッターを開けば、匿名アカウント(個人を特定しようと思えば特定できるようですけれども)のちょっとした呟き、感情の吐露を拾い上げることなど造作もない訳で、それらをパッチワークしてしまえば、元のモデルなんてわかりませんね。
というか、東京の街角で散歩中の麻布競馬場さんに眼差されただけでパッチワークできてしまうほどに類型化された人生を送る人々がいて、滑稽は滑稽なんですけど、これはまあ、東京で暮らす人々の多様性が足りないというだけ。
彼の言うように、各人とも「自由に駆けているようで、実のところ鞭打たれながら決められたコースを競わされるかわいそうな馬」でしかないのでしょう。
もちろん、それ以外の人々の人生を想起することが出来ない著者の想像力の貧困なのだ、と言えないこともないですが。
だとしても、彼はツイッターに生息する人々の最大公約数的な人生を咀嚼して物語を紡いでいるだけです。
まさにツイッターで生まれツイッターで育った文学です。
山内マリコの『ここは退屈迎えに来て』は、変化のない、というかゆるやかに衰退をする地方都市での退屈な日常を書いたものでしたが、本書で描かれるのは、都市圏での生活だって、そんなに多様性があるわけじゃないというものです。
まあ、地方都市よりはあるのでしょうけれども。
地方都市といえば、自分はサラリーマンを引退した後、しばらく京都で暮らしていたのですが、あそこも多様性は低かったですね。
市の中心部のマンション住まいでしたが、東京ほど高給取りの職種に幅があるわけでもなく、結局まわりは医者ばかりになるのです。
子どもの通った幼稚園では、クラスの子の半分とは言わないまでも三分の一はお父さんが医師で、あれはあれで不健全だと感じました。
金持ちが多いのはまだ構いませんが、揃いも揃って医者というのはちょっと子どもを育てる環境としては嫌だなと感じたのでした。
で、もっというと、揃いも揃ってその奥様たちは、神戸出身だったのですが、やはりああいうのは結婚相談所的なマッチングでは医者と芦屋のお嬢様がくっつきやすく、結果ああなるんですかね。
まあ、なんというか息苦しい感じはあって、子供の生育環境のことも考え、結局5年ほどで京都から撤収しました。
その現象だけ見ると、京都が合わなかったのね、とか京都仕草にやられたのね、とか思われがちですが、まあ、正確にはそれとは違うのです。
というか、周りに京都人少なかったし。
京都の街の程よい規模感は好きでしたからね。
札幌・博多くらいに。
街はそんなに大きくはないけど、本屋さんは充実している、というのが良いのです。
それにちょっと普通の本屋では手に入ら無さそうな学術書的なものも、いくつかの大学生協に行けばだいたいありますしね。
話がズレました。
東京タワーが見えるかどうかの話でした。
今回、ツイッター上ではなく書物の形で改めて作品群を読み返したわけですが、上述の通りツイッターで増幅された著者の妄想の産物なので、妄想できない世界についてはあまり描かれていません。
というかツイッター上では垂れ流されることのない類の人種についての話は無いのです。
例えば本書の主人公の学歴は良くて早慶止まり。
職種は広告関連が多いですね。
リクルートだけ社名が特定されていますが、ツイッター上でも色々とネタにされやすい会社です。
また、主人公の出身地は大阪か製紙工場の城下町か関東のどこかで、帰国子女や東北・北海道出身者がないのも、著者御本人の背景というよりは、考えてみたらツイッター上でもメジャーではないな、と。
世の中にもツイッター上にも、東北・北海道出身の人はいらっしゃるのでしょうけれども、ことさらにそれをネタとしてツイッターに投下する人は少ない、ということなのかもしれません。
ちなみに自分も就職活動のときリクルートに行きましたが、「君は金融に行ったほうがいい」と言われて、まあ、その通りになった人生でした。
今はどうか知りませんが、正式な面接とは少し違う感じの、社員が司会となった座談会みたいなものに何回か呼ばれ、そこで好き勝手話すだけで、その都度結構なお金をくれたんですよね。
本書の主人公に金融の人がほとんどいないのは、著者が金融業界の人間でない、という以上に陰湿な金融話は窓際三等兵さんの専売特許で、ツイッター文学界隈でも棲み分けがあるのでしょう。
登場人物の一人として話に出てきても「メガバンク」とか「ゴールドマン・サックス」とか、解像度が粗いです。
ツイッター文学だけに、ツイッターによくいる人達の人生がわかる一冊。
コメント
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