大淵幸治『本当は怖い京ことば』読了。
京都の小学校を卒業したくらいには京都が長い著者ですが、どうやら生まれが京都でない、というか三代前からの京都人ではないので京都人を名乗らせてもらえない、という負い目?からか、京都育ちでありながら外部の視線と言葉で京都を語れる稀有な才能を身に着けることとなったようです。
次から次に「京ことば」をキーにした京都人のありえないエピソードが続きます。
ディアスポラの思考とかいうと大げさですし、著者自身、別に京都人になりたいとも思っていないフシがあるので、コンプレックスとも違うのでしょうが、読めば読むほど、京都のイヤな面が見えてきますね。
私が京都で暮らしたのは5年ほどでしたが、そういうイヤな面は薄っすら見た程度で切り上げられたので、それはそれで良かったのかもしれません。
今でも、あの死にかける夏の日差しとか、風がないのに芯から冷える冬の街とか、夕方まで干さないと乾かない洗濯物とか、懐かしくなりますからね。
ああ、どれもこれも厳しい気候についての記憶で、人についてのものではないですね。
自分の場合、京都で暮らした割には、ビジネスで京都の人と絡むことは少なかったし、近所付き合いも外の人が多かったです。
ビジネスの場合は、まあ付き合う相手は選べるわけで、嫌味な人を敬遠していたら、結果的に大阪人が多くなったというのはありますが。
保険屋さんですら京都人はめんどくさかったですからね。
最後まで付き合った人のなかには、大阪人だけど敢えて京都で店を構えてます、みたいな方もいました。
店と言ってもシェアオフィスでしたが、その人は「東京で仕事をするときに、大阪が本社だと舐められるんですよ。でも、京都だと一目置かれるというか。」と合理的に京都な人で、まあ、そういうくらいの人が付き合いやすかったです。
あと、近所付き合いというか、子どもの通っていた幼稚園は、中京のど真ん中ということもあり、そもそも生粋の京都人が少なかったというのはあります。
市の中心部で工場を構えていたような会社がどんどんと撤退していって、その跡地に分譲マンションが建っていったわけですけれども、京都には外資系の金融機関やコンサルの会社があるわけでもないので、そういうマンションを買えるのは、基本的にはお医者さんくらい。
というわけで子供の通っていたクラスでは、3割くらいがお医者さんの家庭でした。
あれはあれで相当にいびつで、ああいう環境で子供を育てるのはちょっと嫌だなあと思ったのも、あの街を離れた理由の一つにはなります。
別に中心部でなければそんなこともないのでしょうけれども、そうすると今度は暮らす上での不便さが出てきたり、何よりそこまで京都で暮らす意味も無い、となるわけで。
まあ、生涯に一度、数年暮らすくらいでちょうどよい街かもしれません。
よそ者として長居せず、一通り歴史を楽しんだらさようなら、と。
著者のように、京都人でないことでひたすら毎日迫害されながら生きるというのは、辛いですね。
定期的に本が書けるほどにネタには困らないのでしょうけれども。
本書は、「京ことば」のフレーズを軸に著者がそれにまつわるエピソードを書き連ねていくというスタイルなので、一冊通して何かストーリーがあるとかいうわけでもありません。
それらの一つ一つに深みがあるというわけでもないので、逐一評価するというわけにもいかないのですが、読み終えると徒労感が出るという、そんな一冊です。