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外山薫『息が詰まるようなこの場所で』読了。
言わずとしれたタワマン文学の祖、窓際三等兵さんの作品です。
麻布競馬場さんはそのまま「麻布競馬場」という名で本を出版したのに、窓際三等兵さんはツイッターとは違う作家めいた名前で出すあたり、そこも心が少しねじれている感じがして好感が持てます。
何となく麻布競馬場さんの短編にも出てきたようなプロフィールを持つ登場人物が多いのは、気のせいなのかそれともタワマン住民にそんなに多様性が無いということなのか…。
まあ、話にしやすい類型があるのは否めません。
帯には「タワマンには3種類の人間が住んでいる。資産家とサラリーマン、そして地権者だ。」
とあります。
ただ、湾岸のタワマンで地権者が住んでいるという設定は少し違和感はありました。
湾岸地域は元々埋立地なんだから地権者って言われても…。
桐野夏生『ハピネス』でも深川地元民枠の登場人物の一家は、タワマンに住む主人公とは幼稚園が一緒のママ友グループではあるけれどもタワマンの住民ではない、という設定でしたしね。
それでも、本書の内容を反映した「開業医とエリートサラリーマンとソルジャーサラリーマン」という対比で帯を書くのは、少し弱かったということなのだろうと思います。
ストーリーは時系列を崩さずに語り手が移り変わっていきます。
共働きソルジャーサラリーマンの妻、夫、開業医妻、夫ときれいにつながっているので、帯は帯で独立して見るのが良さそうです。
また、エリートサラリーマンとソルジャーサラリーマンの対比も、総合職のパワーカップルと夫総合職・妻一般職の仕方ない共働き、というものです。
帯に書くには地味というか短いコピーでは伝えきれないものだとしても、非常によくできた対比なのです。
タワマンを買ったがゆえに共働きをやめられない一般職の妻という設定も、彼女の親友が流山の戸建てで専業主婦として、「降りた」もののいきいきと生活している描写があることで引き立っています。
とはいえ、これに限らず普通の町であれば格差も多様性ももっと開きがあるでしょうし、この程度の格差が問題になるというのも、タワマンの特殊性とも言えます。
自分自身の話をすると埼玉の郊外の団地で育ったので、周りを見回しても収入から家族構成までほとんど均一、というのが当然の環境でした。
ほとんど均一なのは間取りがすべて同じ2LDKで、当初の入居者は皆ほぼ同じ値段で同じ時期に購入した面々だからですが、そういう人工的な均一性みたいなものは、あまりよろしくないみたいな議論が、その後の都市工学とか都市計画論とかそういう方面であったのでしょうかね。
今ではタワマンに限らず民間の分譲マンションでも、一つの建物の中に少なくとも数種類の広さ・間取りが混在していますし、販売時期も少しずらしながら捌いていますよね。
当時自分の住んでいた団地はその団地だけで自治会・子供会を構成していました。
地域の中でも野球にせよソフトボールにせよ最強でしたが、決して豊かではない均一さが生む連帯感みたいなものはあったかもしれません。
それに比べるとレベルはともかくタワマン内ですら分断があるというのは、少し可哀想な気も。
いや、分断があると感じているのは親の方だけで、子どもたちはもしかしたらこの小説のようにそれはそれとしてうまく付き合っていっているのかもしれませんが。
そのあたりは、自分は現実にタワマンに住む子どもたちというのと接点がないのでわかりません。
ストーリーの半分以上は子供らの中学受験にまつわる話で、これもリアリティを感じられる読み手と感じられない読み手ははっきり分かれるのでしょう。
それでも、海外留学志向を持ったり医学部進学に疑問を持ったりする子も登場したり、中等部から慶應に進めたものの就職活動で躓く子の後日談を紛れ込ませたりと、必ずしも中学受験マンセーにしていないあたりもツイッターに生息する著者ならではの筆致です。
これもツイッターで聞きかじっただけのお話ですが、昨今の大学受験事情、偏差値ではもう東大の理系よりも地方の医学部のほうが高いという現象は終わりを告げたようですね。
少子高齢化が進む中では、さすがに現役世代の高負担を前提にした「医者なら安泰」という未来も描きにくいと考える向きが多くなったことの現れでしょう。
あと、2年めでメガバンクを辞めた矢島くん。
あとから意外とキーパーソンで盛り返してくるかと思いきや、その後まったく登場しませんでした。
それだけの人材という描き方なのでしょう。
まあ、今日日優秀な人間は銀行には進まないだろうというのは真実ではありますが…。
かつて自分が勤めていた運用会社にも、営業部門には銀行からの出向組が一定数いましたが、年々出向してくる人間のレベルが下がっていったのを思い出しました。
銀行側で、出向させる人材のレベルを落としているのではなく、銀行に就職する人材のレベル自体が落ちていっているのだな、と理解するまでにはそんなに時間はかかりませんでした…。
でも、そういう人材に限ってなぜかプライドだけは高かったりするのですよね。
意識としては子会社に出向している有望な若手のオレ、みたいになっているので。
自分に限らず運用会社に就職した人間というのは、就職活動時に銀行なんて志望していないケースが多く、そういう態度で来られて少し戸惑ったりしてました。
まあ、あのころは金融業界も過渡期でしたかね。
今はさすがに、ソルジャー銀行員が出向先の運用会社で、運用の人間に上から目線で接してくるとかいうのは無さそうですけれども。
ツイッターで見かける短編のタワマン文学を凝縮してうまく一つのお話にした一冊。