グレゴリー・ケズナジャット『鴨川ランナー』読了。
二つの作品が収録されています。
京都文学賞というものを受賞した自伝的な作品である表題作の「鴨川ランナー」と、著者の友人の話なのか福井のNOVAと思われる英会話学校の講師だった白人男性が、NOVAの倒産を機に結婚式場併設の教会の牧師になるという「異言」です。
前者は、京都に今暮らしている人よりは、暮らしていたことのある人の心にグッと訴えかけてくる作品です。
実際、著者も今は東京で教鞭をとっているとのことで、物語の終盤では東京での仕事が忙しくてなかなか京都に行くこともできなかったけれども、ふと京都で開かれる学会に参加することを思い立ち、京都に「帰る」のです。
そして、ホテルで目覚めた早朝に、鴨川を走るエンディング。
情景が目に浮かびます。
自分もまた、いつかは京都に「帰りたい」と思ってしまいましたねー。
別にあそこで生まれ育ったわけでもないし、住んだのも5年ほどなのですけれども。
でも、うちの家族の他の誰にも、まったくそういう気持ちは無いようで、いざそういうことを思い立ったら単身で行くことになりそうです。
この京都文学賞というのは今回が2回めだそうで、やはりこういう題材の作品を選ぶのが方針なのでしょうか。
京都を特別視してくれるガイジンさんを大事にしたいのは、観光資源が売りの街では当然のことではあります。
この作品によると、著者は高校生のときに訪れた祇園祭のさなかの京都が忘れられず、大学卒業後に日本の公立中での英語チューターの職を得て来日、その後京都のとある町家で、ひょんな縁で同志社の谷崎潤一郎研究の第一人者と知り合い、同志社の博士課程まで学びなおし、法政のグローバル教養学部ということころの教員として就職、という経歴。
作品を読むに、初めて見た都会が京都だったというだけなんじゃないか、なんて思ってしまったりしましたが。
それでも、それまでの自分の世界の中では想像もしていなかった世界があった、というのは衝撃的な経験だったろうと思います。
あのときの感激をもう一度見たくて、というのはわかります。
だってジョギングするだけで絵になる街だもの。
これが、「荒川ランナー」とかだったら、金八先生が歩いているくらいのものですよ?
ちなみに京都で谷崎が住んでいたという町家ですが、今売りに出てますね。
住んでいたと言っても半年くらいだそうですが。
著者が同志社の先生と出会った町家かどうかはわかりませんが。
後者の「異言」は、完全に地方都市の話ですが、ともするとタイとかフィリピンで沈没している日本人の話と同じ目線で見てしまいます。
なんというか、ビジネスが理由でそこに滞在しているのとは違う異邦人の話といいますか。
日本にいるガイジンではあっても、金融とかコンサルとかにいるのとは違う人びとですね。
京都に住んでいた頃、子どもが通っていた幼稚園にも、父親がガイジンで母親が日本人という人はいました。
巷の英会話学校の講師だったり、大学の語学の非常勤だったり、それが成立する程度には京都も都市なのですが、でもグローバル企業の支社が軒を連ねるという土地ではないので、あの街にいるガイジンさんも、そういう人たちではないのです。
異国の地で等身大の幸せを手に入れている彼らがどんなことを考えていたのかなんて、あまり深く考えたこともありませんでしたが、自分もまた、人生を降りてあそこで暮らしていて、まあ立場としてはあんまり変わらなかったわけで、それなりに付き合いのできた人もいたのは、こういうことだったか、と。
また、京都という街は、あれはあれで懐が広く、よそ者をよそ者として遇するすべを心得ているのですね。
なので、著者言うところの微妙な距離感を保つ限りにおいては、我々のような、得体のしれない、いったん降りた人でも、快適に過ごすことができるわけです。
あれを、疎外感とか言ってはならないでしょうし、それ以上の距離を詰めようとしてもいけない。
街を歩いていれば、都会並みに人はいますが、一日に一回は必ず知り合いに会う程度には田舎で、とはいえその殆どはそこで挨拶・世間話をする程度の付き合いだったりしますが、まああのサイズ感は独特と言えば独特ですね。
東京でそんなことは経験しません。
会社の近くであれば、仕事関係の人とすれ違うとかいうことはあるでしょうけれども。
この二作を通して、著者の異文化に対しての接し方が垣間見れるのですが、絶えず異物として消費されながらも、その距離感をどこか客観的に、そして楽しむことができる能力があって、だからこそ、今に至るまで、日本で暮らすことができているのでしょう。
自分もまた、京都での生活が懐かしく思えたりするのは、異邦人としての扱われ方を受け入れることのできる能力があったからなのかな、なんて思った次第。