本郷和人『歴史学者という病』読了。
表紙にしろ帯のコピーにしろ、狙いすぎの感はありますが、それくらい自分としては思い切ったということなのでしょう。
一歴史学者による自伝的な本です。
都内の中流家庭に生まれ、運動もダメ、音楽もダメ、勉強もダントツではない、というのでそれなりに屈折しつつも、武蔵から文Ⅲ、そして史学科、史料編纂所という経歴です。
史学ではエリートコースですよね。
それでも本人の回顧では、ずっと自分はダメな人間だった、という思いの吐露で満ち満ちています。
人生の割と早い段階から、社会の無用者として生きる、と決めていらっしゃったようですが、開き直りというか逆ギレですよね、これ。
自分でも折りに触れ中二病だった、と書いていますが。
将来は坊さんとして生きようと決めていたけど、家に来た坊さんが寺の株を買って独立する、となったときに値段を聞いたら5000万もした、というのでその道も断念、というエピソード然り、物事をよく知らないうちに自分で自分の人生の道を狭めてきたような感じがあります。
でも、研究者、とりわけ史学でそれを志すような人間というのは、そういうものかもしれません。
資本主義社会のなかでなにか自分を活かせる道を模索するよりも、自分はどうせ役立たずな人間なのだからと開き直り、それをする努力を放棄した上で、自分の好きな文献を読むことで生きていければいいなあ、という。
ツイッターでは、渡邊大門さんの「大学院を出て博士号を取っても、生活保護」という言葉に、掛谷英紀先生が「社会の役に立つ専門分野で博士号をとれば、こんな目には合わない。」と返していました。
さらに、需要のある学問を見極められないからこうなる。でも、それを見極めるのにも教養が必要、と追い打ちをかけています。
渡邊さんの現在の懐事情はわかりませんし、研究者としてどういう扱いをされているのかも存じ上げません。
笠谷先生の本ではその主張が引用もされていたし、ご自身の本で経歴を見る限りでは会社経営をされているようだし、もちろんその著書は十分に楽しませていただきました。
少し左寄りっぽい主張が気に障るところはありましたが。
ツイッターネタをまともにウケても、というのはありますが、まったくのホラでもないでしょう。
史学科時代の仲間が生活保護を受けているとか昔自分がそうだった、とかでしょうか。
そうでなくとも、ある程度真実性を含んでいることは、同業の人間ならわかる、的なものだったり。
確かに、今でも統計やデータ分析の分野での博士号を持った人なら引く手あまたでしょうし、実際自分が就職した会社でも、同期入社には数学科の博士課程を終えた人間もいました。
(単位取得退学で博士号は持ってなかったような気がします。)
入社後、使わないだろうにアナリスト試験だけでなくアクチュアリの試験も受けてましたが。
で、そういうあたりの研究者事情も含んだ上で、後進に向けた助言書と見ると、本書の内容も腑に落ちるんですよね。
嫌味な言い方をすれば、還暦を過ぎ、そろそろ逃げ切りも見えてきたが故の、歴史学界隈ならびにアカデミズムに向けての苦言というか。
大学院を充実させた結果、レベルの低い学生にも博士号が乱発されている。
一方、博士号保有者に対する需要は増えているわけではない。
そういう面々が学問で食えないというのは、当然の話。
そこのところをちゃんと理解しているかい?という。
ただ、なんというかそういうところ、文Ⅲしぐさなんですよね。
学生時代、学外のフォーラムでたまたま一緒になった史学科の人がそういう感じでした。
明らかに他大の人間を下に見つつも、どことなくコンプレックスを感じさせる物言い。
呉座先生とか、それをこじらせた口だと思っていますが。
歴史学者なんていう道で生きてみるのもいいかもしれない、などと軽い気持ちで道を踏み外さないように、という老婆心半分、オレはお前らより頭が良い、というマウント半分。
研究者志望の学生に向けた一冊。