笠谷和比古『論争 関ヶ原合戦』読了。
昨日、ツイッター上でも「#関ヶ原2022」というワードがトレンド入りしていましたが、今年も?関ヶ原の戦いは東軍勝利で終わりました。
毎年9月15日は、石田三成アカウントを中心に、未明の戦闘開始から午後2時過ぎの「【悲報】負けました。」まで、時事ネタも絡めながらのお約束を楽しむ一日ですね。
おかげで、関ヶ原の戦いが、一日の中でどう進んだのかを毎年復習しているような感じになります。
コロナ禍での合戦?で、ここ数年は、ソーシャルディスタンスが原因のディスコミュニケーションが西軍敗北の原因となっていましたが、今年はau端末による通信障害が主因とか。
『光秀のスマホ』・『義経のスマホ』の元ネタというかアイデアの源泉の一つは、間違いなくこの三成さんのアカウントにありますよね。
今年、10周年を期に本も出るそうです。
冒頭から話がそれました。
本書はそんな関ヶ原の戦いについての本です。
『論争 関ヶ原合戦』という本のタイトルからすると、史実について論争となっている点について両論併記で進んでいくような展開を予想しますが、そうではありません。
直江状にせよ問い鉄砲にせよ「このよう主張があるが~」からの「ワシはこう考える」です。
それでも巷の論が(多分)一通り整理されているので、すんなり頭に入ってきますね。
著者の主張に反論したくなるほど知識があるわけでもないので、誘導されているきらいはありそうですが。
小和田哲男先生のYouTubeでは、
「とまあ、笠谷先生はこのような説を唱えられているわけですが、うーん、どうでしょう。私は少し違う見方を持っていまして~」
とよくダシに使われていますが、資料を元にした議論というのは健全ですね。
本書を通してまず感じるのは、近年では徳川対豊臣という視座はだいぶ後退しているという点です。
それから、今更ながらに情報伝達の時差というのは大きいものなのだな、と。
それこそLINEで情報が瞬時に伝わるというのとはまったく違う風景がありますね。
信長の野望でもそうですが、最新作の<新生>においてすら、敵が城を出た瞬間に何人の武将で何万の兵士でどこに向かうのかがわかってしまうわけで、なんともありえない事象だなと感じます。
本書でも、問い鉄砲に関して、家康の本陣から大砲を撃っても松尾山には届かないとか聞こえないとかいう主張に対しては、松尾山山頂にすべての小早川軍が配置されていると考えるのはゲーム的と断じています。
これについては新資料も交えながら、問い鉄砲自体は無かったとしても、それに近いプレッシャーをかけたのは事実だろう、という穏当な結論です。
また、本書で驚いたのは、小山評定の前提について。
その時点では家康一行には三成単独の動きとしか認識されておらず、秀頼・淀殿から三成成敗の打診があったから上杉討伐を取りやめて引き返そうと思うのだが、という評定になっています。
それであれば豊臣系の武将の多くが家康に従ったのも頷けます。
また、その評定後に、秀頼による家康追討軍が形成されそう、という知らせが入ったことが解説されます。
これにより、しばらく家康が江戸から動けなくなったことや、合戦が豊臣家の内紛で終わらせないために家康が軍を動かしたこと、また合戦中のほとんどの時間帯で家康本陣は前線からかなり離れていたことも理解できます。
それから本書では深く触れられていませんが、井伊直政・松平忠吉が多少強引に一番槍をつけに行った理由というのも、このあたりにあるのだろうな、と。
とはいえ、史実の関ヶ原で一旦敗れていても、秀忠の精鋭部隊が到着すれば徳川が勝ったであろうことは疑いようもなく、そういう二段構えを取れる時点で、やはり必然の東軍勝利だったのだなと感じます。
何なら、秀頼様自身が御出座しにならない限りにおいては、福島正則を始めとした東軍方の豊臣武将は、多少戦で傷んでくれていたほうが家康にとっては都合が良かったのでは、というあたりまで思わなくもないですね。
さすが古狸。
逆に、この戦後処理で毛利・島津を生かしたことで260年後に仕返しを食らうわけですけれども。
まあ、それはそれ。
歴史って面白いですねぇ(語彙力)
コメント
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