安間伸『地方出身親のための中学・大学受験』を読む。
安間氏の新刊ということで読みました。
出版を知ったのは、彼のブログで目次と内容の一部が載っていて興味を持ったからです。
あのブログも、しばらくQアノン的な記事が続いていましたが、出版を機に軌道修正といったところでしょうか。
教育がテーマなら、子供を持つ親として関心はあるわけですが、いかんせんタイトルからして読み手を限定しますね。
地方出身で首都圏に住み、なおかつ小学生の子供を持つ親がターゲットの本、と言っているわけですから。
案の定まだAmazonレビューはゼロです。
で、自分はと言うと、地方出身者でもないし、自分の子どもで中学受験は考えていないし、本当はターゲットではないのですが、読んでみて少し考えさせられるところも。
一番は、昔に比べて栄養状態が改善したことで子供が早熟化したという指摘ですね。
なので頭のトレーニングも、昔より早めてあげないと能力を伸ばすことができないまま成長が止まってしまうかも、という指摘は、たしかにそれはあるかもな、と。
ただ、そのトレーニングを中学受験という形でやらせるべきか、というのはあると思います。
大いに弊害もありますからね。
本書を読んでみても、中学受験をさせるなら塾通いは必須だということがわかりました。
けれども、うちの子は今でも夜8時には寝てしまいますので、塾に通うなんてのは到底無理なのですね。
じゃあどうすればいいんだ、ということですが、まあ、それなりに先取りした教材でも目の前にぶら下げておくか、というくらいでしょうか。
「教材」とわかった瞬間に嫌悪感は出てしまいそうですが。
それでも、本書で述べられている中高一貫校のメリットというのは大いに同意します。
別にトップ校でなくても、中高一貫というだけで得られるものは大きそうだということが、論理建てて説明されていて、そこは頷けます。
例えば、オードリーの二人を見ると、中高の6年間を一緒に過ごした仲間というのはかけがえのないものだな、と感じるのですね。
ふたりとも日大二中高なので、まあ、中学受験では取り立てて優秀なほうではなかったわけです。
そこは若林氏も著書のなかで自覚している通りですが、あの学校で出会った春日とのエピソードを、あのとき部室でお前はどうだった、とかそんな話を今でもできる関係があることがまず素晴らしいな、と。
本書の主張する、間に高校受験を挟んでしまうと子どもたちが「中だるみ」を謳歌できない、というのはこういう関係を築く余裕もない、ということなのでしょう。
とまあ、そんな読み方をしたわけです。
ただ、そうは言っても本書の通底にあるのは東大合格をゴールとして逆算したときにどういう道筋がベストか、という観点でのお話です。
そこにあるのは合理的な判断・選択としての中高一貫校への進学であるわけですが、その主張については、そこまで親が苦労して子供を東大まで入れたとしても、所詮東大だしなぁ、という気がしてしまいまして。
いや、別によくあるグローバルランキングの中で東大はどうだとかいうありきたりな話をしたいわけではありません。
半端な日本下げ論を言いたいわけでもありません。
というか、そもそも自分は仕事で海外資産を扱っていただけで、自身は海外志向が強いタイプではないです。
勤め人時代には海外赴任の話を3回断ったくらいには、衰退しつつある日本が好きなわけで。
そうではなく、単に、直近の呉座vs北村の件に代表されるような、狭い世界観からくる狭い世界での反目というか、そういう物悲しさが思い出されるのですね。
どちらも東大卒の研究者です。
そして、どちらもあまり幸せそうには見えないですね。
片や裏垢で気に入らない研究者をディスる人、片や世の中の矛盾のすべては男性に原因があるかのように切りつけてくる人。
今回の騒動を受けて、北村女史へなされた文春のインタビューでは、自身と呉座氏との対比について、首都圏の男子進学校カルチャーと地方出身女子学生という切り口で語っていました。
インタビュアーは、構成として男性研究者からの女性研究者への嫉妬という図式で進めたがっていたような水の向け方で、確かにそれは嫉妬なんだけど、その根拠付けとして語られているものは少しちがうというか、単純化されているというか、心のうちのもっと汚い部分が隠蔽されているように感じました。
ぶっちゃけて言うと、どちらも文Ⅲなんですね。
で、多分呉座氏にとっては、自分が文Ⅲ出身なのはスティグマなんじゃないかな、と。
彼の出身である海城は、たしかに御三家ではないですが、そこそこ東大への合格者数も多い学校で、同級生にはもっと頭のいい人も、もっと稼いでいる人もいるでしょうし、研究者となった現在でも、「いや、偉そうなこと言ってもオレ文Ⅲだしな」、みたいなところはあるのではないでしょうか。
裏垢で北村女史のことを「エリートとしての義務を果たそうとしているところを見たことがない」と言っている呉座氏には、エリートである自覚というよりは、エリートになりたかった、という願望のほうが先にあるように見えます。
一方の北村女史は、そのあたりは無意識なのか、意識的に無視しているのかわかりませんが、入学時には学内に知り合いは3人しかいなかった、というような環境で、別に文Ⅲだからどう、という心持ちもない(、ということになっている)のでしょう。
その屈託の無さは呉座氏にとっては一つ癪に障るところかもしれません。
それから、進振りで教養、それも北村女史のいた表象文化論なんてところに進むのは、それなりに入学後の成績の点数も高くないといけないという事情もあります。
ただ、もっと言うと、そこから先の研究者としての道を考えると、教養より文学部のほうが良いみたいなところはあるのです。
「良い」という言い方が語弊があるとするなら、研究職に付きたいなら本郷に行っとけよ、という共通理解、みたいな。
なので研究職を目指すなら後期課程で教養に進むのは悪手みたいなところがあって、そういうナレッジみたいなところは、当然に学内に知り合いが多かったであろう呉座氏のほうが持ち合わせていたはずです。
教養の院を出て研究職にありつくのは、本郷の院を出て研究職につくのに比べたら幾分か難易度は高いでしょう。
(なので、教養の院から研究職を目指す場合には、途中で留学して箔をつける人が多いように思えますが、北村女史もそれは踏襲していますね。そして、それこそは上流国民でないとできないことであろうことですね。資金面を別にしてもなお。)
なのに、そういったあれこれも難なくクリアして研究職についているのは、もっと癪に障る。
こういった二重三重の構造が生んだ嫉妬心というか、そういったドロドロしたものは、もちろんそのインタビュアー(早稲田出身のライター)にはわからないでしょうし、北村女史ももしかしたら本当にこういうハック的というか下世話な話は知らずにここまで来ているのかもしれません。
で、こういう事情も汲みつつ、感想としては、「疲れません?そういうの」、という。
中高一貫校で東大を目指すということは、こういうカルチャーに染まるということなのでしょう。
だったら、自分の子供にはこういうところとは無縁でいてほしい、なんていうのは贅沢でしょうかね。
子どもに将来のことについて聞くと、「警備ロボットを作りたい」とか「化石を発掘したい」とか、まだまだそんな純なことしか言いません。
でも、そういうところを突き詰めていけるなら、突き詰めて欲しいと思います。
本書を読んだ感想としては、「中学受験を経て中高一貫校に進み東大に入る」というのは、合理的ですが、その一つの価値観しかないとその後の人生も疲れますよね、というもの。
まあ、自分自身の子育てとしては、子どもが文Ⅲを受験したいと言い出したら、全力で止めます。
さらに、子どもが社会学者になりたいとか言い出したら、勘当します。
そして、子どもがフェミニズムを言い出したら・・・、そうですね。
親子関係があったことも忘れておいたほうがいいかもしれませんね。
以上です。
最後に小ネタを一つ。
義父の友人(開業医)の話。
あるとき、その友人が義父と話したときに言ったそうです。
「他の人に言えないから言うんだけどね。息子が東大に受かったの。」
「おー。おめでとう。」と。
で、数年後、どうしているかを聞いたら、ため息をついて、
「卑弥呼の研究をしているらしい」
とポツリ。
開業医の親としては子育てを失敗した、と。
ていうか、文Ⅲだったんですね、と。
まあ、周りを見ても、だいたいそういうケースだと数年経ってから親の意向もあり医学部を再受験していますので、結論を出すのはまだ早いですが。
いずれにせよ、エリートとしての義務だか権利だか、そういう当人の意識とは別の次元で、親は子どものことを考えるものです。