姫野カオルコ『青春とは、』読了。
主人公の設定として、1958年という生まれ年だったり、滋賀県という出身地であったり、ある程度著者ご本人の思い出を下敷きにはしているのかな、というところもあるものの、さすがに作り話だろうという出来すぎなストーリーも混ざりながらの展開で、序章を含めて全8篇。
地方の高校生の日常を描いた、もしくは日常のことを後になって振り返った作品は色々あるものの、やはり世代によって違うところとそうでもないところとありますね。
といいつつ念頭に置いているのは、山内マリコの『ここは退屈迎えに来て』と朝井リョウの『桐島、部活やめるってよ』だけだったりするわけですが。
あまり古すぎる作品だと参考にならないから、というのは言い訳で、まあ、近年読んで記憶に残っているその手の作品がこれくらいです。
昔だと『ダウンタウンヒーローズ』とか『海がきこえる』とかそこらへんでしょうか。
ちょっと古すぎる?
ちなみに、
山内マリコ(1980年生まれ)
朝井リョウ(1989年生まれ)
ですね。
下の世代だし。
じゃあ、我々の世代でそういう作家がいるかというと、あんまり思いつきませんねぇ。
年齢的には平野啓一郎?
でも、彼は学生時代から作家先生だしなぁ。
というか、そういう作風はできなさそうな。
スクールカーストの埒外にいた感じがしますよね。彼みたいなのは。
総じて、小説を書くほどの余裕もなかった世代、かもしれません。我々は。
先日の燃え殻さんとかに書いてほしいですけど。
それらの思いを踏まえて、これら3作品を比べてみると、いずれも地方都市での高校生活の切り取りなのですが、『桐島~』には、東京を意識した目線がまったく出てこないのが、やはり特徴的だな、と。
ネット世代以前と以降で東京の位置付けもまったく異なってしまったことが、それが触れられないことで逆に浮かび上がるという。
この『青春とは、』の主人公クラコは、今現在は都下に住んでいる設定なわけですが、複雑?な家庭環境もあって、どこかへ逃げたい、という先が、途中名古屋を経由してはいるものの東京だったわけです。
仲の良かった犬井くんも
「おれ東京の大学受けることにした」
「うん」
「そうせんと、始まらんがな」
「うん」
「だろ?」
「うん」
「そやから行く」
「うん、行け」
という調子。
また、『ここは退屈迎えに来て』で最初に出てくる主人公的な立ち回りの子は、東京に出たけど、十年経って戻ってきてしまったという設定。
逃げた先でも挫折した、的な感覚だろうか。
クラコは家庭の事情から何とか滋賀の田舎町から逃げたかった。
犬井くんは「そうせんと、始まらんがな」で、上京した。
『ここは退屈迎えに来て』の最初の子は、出たけど特に良いこともなくUターン。
『桐島~』に出てくる子達は、まあ、まだ学園生活真っ只中ということもありますが、東京への目線が微塵もない。
上京後の記述はあまりないものの、とりあえず都下のシェアハウスで、それなりに人生を整理しつつ老いを受け入れることはできている『青春とは、』の今現在のクラコ。
夢を持って上京した犬井くん。
無理して上京してみたところで、派遣かバイトか、ただただ魂をすり減らすだけの日常だということで、それは失われた30年間の帰結なのか端緒なのかわかりませんが、まあ、とにかくそれが意味のある形で報われることはなかった、というのが可視化されている『ここは退屈迎えに来て』。
一方、『桐島~』の描いた、というか描かないことで描いてしまったのは、上京くらいで何かが変わるわけじゃないぜ。
というなんとも身も蓋もない感じの結末ってことなのかな。
スクールカースト低めのやつは、どこ行っても低いんや。
というね。
でも、それもまた、この30年間で、特段何に秀でているわけでもない人材にあてがわれる職の賃金が上がらなかったこと、また、そもそもそういう職の椅子が減っていったからだというだけのところもあるわけで。
うん、まあ、そういう外部要因があっての事情を、コミュ力とかそういうものの反映としてのスクールカースト的なものとかに帰結されると辛いものがありますな。
ちなみに私は、この手の作品を読んでも、実はそんなに共感することはない。
別に、地方出身者じゃないから、というのではなく、高校には行っていないからだ。
15から18の思春期。通っていたのは、東京の外れにある高専でした。
なので、高校生ならではの「あるある」に頷くこともできず、中学や大学での経験を敷衍させて想像するだけなのである。
読むにつけ、あー、こんな体験が出来るんだったら、高校くらい行っても良かったかなー、とは思ったりしますけどね。
コメント
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