先日、燃え殻氏の『ボクたちはみんな大人になれなかった』を読み、大いに感じるところがあったので、待望の第二作、という触れ込みの『すべて忘れてしまうから』を読んでみた。
のっけから裏切られたのは、これ、小説じゃなかったんですね。
エッセイ、それもSPAの連載をまとめたもの。
えー、とは思ったものの、それじゃあ読んでも面白くなかったのか、と言われるとそんなことは無い。
すべての話が、きちんとオチているわけではないけれど(、というか毎週連載でそれができるのなら天才)、その時々で、自分の身の回りに起きたことについて、時には過去の出来事と絡めながら、自分の考えたことを自分の言葉で語っていて、その切り口が非常に燃え殻氏らしいというか、自然じゃない自然体。
前作は自伝という体裁なので、過去から今に至るまでの自分語りで一冊の本だったものの、この本、というか連載では、現在進行系の彼の語りなので、その瞬間瞬間の切り取りで、別の面白さがある。
で、それでもそれぞれが十分に読むに耐える水準であることが凄いわけですが。
その意味では、「週刊連載やりませんか」と彼に話を持ってきた編集者の方の勝利なのだろう。
本文で時折、知り合いの女性、とか好きだった女性、とかいう感じで登場する人物について、あれは前作のあの人じゃないか、とか類推できて面白い。
穿つこと無くそういう読みが出来てしまうのは、彼自身が冒頭に、前作で書いたことはほぼ実際にあったことで、脚色無しの出来事なのであろうことを吐露してしまっているから。
まえがきで、大槻ケンヂと会ったときに彼の自伝的小説『リンダリンダラバーソール』を読んで涙したポイントを告げたら、「それは全部なかった」と返されて、あっけにとられた様を、わざわざ書いている。
大槻は、自分はそれらを自身の「希望」として小説の中に織り込んだと語り、次いで燃え殻氏に君の小説の中の「希望」は何かと問うている。
つまり、あれはフィクションなんだけど、君の作品の中のフィクションはどこなの?と。
それに対して、燃え殻氏がどう答えたのかは書かれていない。
タイトル(『ボクたちはみんな大人になれなかった』)こそ希望を込めたものだった、などとうまく文を締めているものの、その場では大槻が「希望」と表現したフィクションに相当するものを、燃え殻氏は答えられなかったのだろうと思われる。
書いていないからだ。
彼の作品にはそういう意味でのフィクションはなさそうだと感じたのはそこにある。
燃え殻氏にとっては自分の小説の中でフィクションを織り交ぜることは、考えにもないことだったということが、彼らしく、また面白い。
小説の体であろうと、別に空想を書く必要はない、わざわざ話を作る必要性を感じない、というスタイルが一貫してしまうのは、多分、普段から話を盛らない人なんだろう。
妄想力はあまり使わず、視点で世の中の面白さを切り取るタイプで、その意味では、こういうエッセイ・随筆のたぐいのほうがあっていて、もしかしたら次の小説を期待するのは難しいんじゃないか、なんて思ってしまったり。
いや、余計なお世話か。
本文にも二冊目の執筆に取り掛かっている、とあるし。
逆に本文では、すぐに話を盛ってしまう自分の知り合いについてのエピソードが出てくるが、そういう人を見ても、非難するとか蔑むとかいうのではなく、「サービスの国の住人」という絶妙なネーミングで、彼らとの関わりを楽しんでいる。
格好をつけることが格好悪い、という80年代的なノリとは少し違う。
格好をつけるほどの人生でもなかった、というロスジェネの諦観というか矜持というか、そういう逆説的な強さが文章の中にあり、そこが多くの人に共感される所以なのかな、と。
ちなみに、前回のレビューで、業界人としてどうサバイブしてきたのか気になる、なんて書いたが、今回のコロナ禍で、後輩に仕事をまわすべく自身が休職したことが書かれており、そこもまた等身大のかっこよさなのでした。
コメント
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