笹山敬輔『ドリフターズとその時代』読了。
演劇・大衆芸能の研究者によるドリフ本です。
冒頭、ドリフはあまり研究の対象になってこなかった、という問題提起があります。
体を使ったギャグが多く、音楽からも語れるクレイジーキャッツとも、話芸で語れるタモリたけしさんま、松本人志とも違い、論評が難しかったのではないか、という指摘。
実験的なところがなく、ギャグも初期からマンネリ、歌も民謡や軍歌の替え歌でしかない、など結構な言い草です。
ただ、文面が発する著者のドリフ愛で、これらがディスりには聞こえないのですね。
門外漢なので、本当にドリフが研究対象となってこなかったのかどうかは判断つきませんが、ドリフはドリフであって他の何かと比較して語るのは難しそうだ、というのは傍から見ていてもわかります。
本書は、「演劇史のなかのドリフ」を論じたいということで、いろいろな資料を読み解いて解析しています。
植木等がホワイトカラーサラリーマンの象徴であるならば、加藤茶は集団就職組や出稼ぎ労働者の象徴、といった視点や、『8時だョ!全員集合』はテレビ番組というよりは舞台をテレビ中継したもの、という視座には思わずハッとさせられます。
けれども、一番読ませるのは、いかりや長介と志村けんを比較している箇所であって、事程左様にドリフはドリフなのです。
詳しく論じようとすればするほど、ドリフのいかりやはドリフの志村としか比較できないのですね。
『だいじょうぶだぁ』のネタ合わせでの志村の態度は『全員集合』のときのいかりやそのものだった、というエピソードはグッとくるものがあります。
同じグループでありながら「共演NG」的な扱いになるほどに不仲がうかがわれた二人の、時を経ての奇妙な一致というか当然の回帰というか。
ただ、ああいう徹底して作り込むコントというのも、ドリフに始まりドリフに終わったのかもしれませんね。
同時代のライバルとの競争についても一通り触れていて、萩本欽一、『ひょうきん族』との土曜8時の番組での戦い方を見れば見るほど、ドリフの異質さが際立つ仕掛け。
ドリフが『ひょうきん族』に負けたあたりの記述は、すでにエムカクさんのさんま本で、ひょうきん族側の視点では知っているわけですが、あらためてレベルの高い競争だったことが伺えます。
なお、本書は、全員集合がひょうきん族に負けたところで終わらず、『加トちゃんケンちゃん』でリベンジを果たしたところまでも触れています。
著者は、小さい頃からドリフが好きで、まわりがドリフから離れてもドリフ派だったと言います。
年代からすると、ドリフよりは『加トちゃんケンちゃん』のほうが触れた年月は長かったでしょうからね。
そういう思い入れもあったかもしれません。
自分も、『加トちゃんケンちゃん』がスタートしたときのことは、覚えています。
ただ、第1週・第2週と連続でゲストが田原俊彦で、子どもながらにこれは同日2本撮りだったのだろう、と少し興ざめした覚えがあります。
それまでの『全員集合』の「生」ならではの緊張感みたいなものに惹かれていたのでしょうね。
無論、伝説の停電の回もリアルタイムで見ていた世代です。
作り込むコントの中でもどうしても起きてしまうハプニングで、各人がどう対処・反応するのかという点に面白さを感じていた、という点では自分もドリフ派だったのでしょう。
ひょうきん族の設定だけで進んでいくところとか、視聴者を置き去りにするような内輪ノリがあんまり好きになれなかったところもありましたし。
参照する資料の量で言うと、エムカクさんのほうが遥かに多いです。
ただこれは、時代の差ということもあると思います。
さすがに進駐軍のキャンプ内でのコミックバンドの資料と、80年代以降の雑誌やテレビ番組のVTRとでは入手のしやすさには雲泥の差があるでしょうから。
読み終えた後、長さんも志村も、もうこの世に居ないのだな、としみじみとしてしまう一冊。