重里徹也・助川幸逸郎『教養としての芥川賞』読了。
タイトルからして物議を醸しそうな本です。
著者のお二人は現在は大学の文学部で日本文学を教えていらっしゃる方なので、当然に文学作品に意味を見出しがちなのは仕方ないじゃないですか、といった底意地の悪い見方をしがちなところはぐっとこらえて、読み進めてみました。
とはいえ、取り上げられているのは読んだことのない作品ばかり。
決して自分は芥川賞作品を敬遠しているわけではないし、むしろ気になるものは文藝春秋を買ってでも読んでたりしたのですが。
でも、本書で取り上げられた全23作品のうち、読んだことがあるのは村上龍『限りなく透明に近いブルー』だけでした。
近年で言えば、村田沙耶香『コンビニ人間』などは取り上げられていて然るべきと思ったりしましたが未収録。
先日の『平成史』では、著者の與那覇さんは、その主人公を「自身の発言/研究の内実を理解しないがゆえに、軽やかに勝ち組への階段を昇り続けたのが小池百合子であり、途中で躓いたのが小保方晴子だとすれば、古倉恵子はそのプロレタリア・バージョン」とまで書くほどに作品に入れ込んでいましたが。
これは、どういうことだろうと違和感を持ちつつ、取り扱った作品を目次で見返してみると、最初に取り上げている作品こそ第1回受賞の石川達三『蒼氓』(1935年上半期)ですが、あとはすべて戦後。
特に1950年代から70年代が多いですね。
80年代は受賞作自体が少なかった、という弁解はありましたが、ゼロ年代に至っては、綿矢りさ『蹴りたい背中』と絲山秋子『沖で待つ』のみ。
前者は高校生の話だし、後者は大手企業の女性総合職が主人公の話のようです。
後者について平成を代表する作品とまで称賛しているわけですが、著者らにとっての平成の総括とはそういうことなのでしょう。
自分たちが若い頃は社畜になんてなりたくないと思っていたけど、今の若い人は社畜にもなれないんだよね、かわいそうだ、みたいなお二人の対話がありますが、まあ、その程度の感覚でしょうし、その正直さに乾いた笑いが出てきます。
重里さん1957年生まれ、助川さん1967年生まれ。
まあ、そういうことです。
著者らにとっては、先の大戦の意味、戦後の総括、あたりが人生のテーマで、その延長線上としても高度経済成長をどう捉えるか、それが置き忘れたものをどう表現するか、くらいまでが射程で、必然的にそのあたりがテーマになっている作品を多く取り上げたらこうなった、ということでしょうけれども。
何度となく、日本社会は戦前から変わってない、下手したら日露戦争の頃から変わってない、戦後もそのままだ、みたいな発言が見られますが、こういう発言は、まあ、逆に言うと、世の中がこんなになったのは俺達のせいでは無いからな、俺たちは陸続きの中で過ごしてきただけだからな、という弁明にしか聞こえませんよ、と下の世代の我々は見ますけどね。
戦前派・戦中派、そして団塊の世代にすべてを押し付けて、自分らは傍観者でした、として平成日本の没落も我関せず。
そして逃げ切りですか、と。
なんか悪口を書き続けてしまいそうなので、本稿はここまで。
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