與那覇潤『平成史』読了。
夏に本屋さんで少し立ち読みをして気にはなっていたものの、結構分厚いので読み通せるかなー、と一旦は敬遠していたのでした。
ところが先日、Kindleで50%ポイントセールをしているのを見つけまして、結局ポチってしまいました。
でも、そこからはほぼ一気読みです。
ポチったのはアマゾンポイントが魅力的だったということもありますが、與那覇さんへの興味が向いたということもありますね。
件の呉座氏オープンレター問題が、ユニオンも巻き込んでの本人による勤務先への訴訟という新たなステージに向かう中、言論の流れを一人で変えてしまった感がありますが、そういうスケールの大きい人の本を読んでみたかった、という。
ちなみに、今回の50%ポイントセールではあやうく「マンキュー経済学」もすべて揃えそうになりましたが、すんでのところで留まりました。
まあ、それこそ読破は出来ないだろうし、どうもPaperWhiteでは読めないらしい、というのが決定的。
図表とかをふんだんに使う本だと、白黒で読みづらいだけでなく、もともと対応していない、というケースもあるのですね。
じゃあ、iPadで読めよ、というのはあるのですが、タブレットだと本を本として読む気分にならないんですよねー。
それはともかく、本書を読んでみて、與那覇さんというのは非常に共感力が高い人だな、という印象。
宮台氏の本を読んで、東京と地方とで社会の見え方が違うということに比喩でなく涙を流したとか。
ご自身は筑駒から駒場で博士まで行った人で、それこそそれまで見えていた世界は狭かったと思うのですが、地方の大学で職を得たことで、世界観が広がったということでしょう。
都会の大学人しぐさを残念に思うようになったのは、そういう環境に身を置いてみれば当然のことだったのかもしれませんが、それでも大学の中だけにいるせいか、地方大学の教員をしていても、まったくそういう傾向のない人なんていくらでも居ますから、そこは持っている感性の問題。
如何に自分の大学の学生が、東大生に比べて浅はかか、みたいなことを上から目線で書いている哲学教員の本とか読んだことありますわ。(仲正昌樹『知識だけあるバカになるな!』)
思わぬ病を得て、大学人ではなくなり、歴史学者としての看板もおろし、少し落ち着いて、今や歴史になろうとしている平成を振り返っています。
時折、自身の人生のことと絡めて語るところも出てきますが、特に苦しそうな筆致だったりは感じられません。
心の病が発症したとき、それから治ったとき、過去をどう振り返るものなのか実はよく知らないのですが、本書に現れる限り違和感は感じず、もう病は寛解したのでしょう。
平成の30年と少しを、全15章で解説しているので、2,3年で1つの章ということになります。
例外は1995年で、まるまる一章を費やしていますが、やはり特別な年だったのだな、と。
とはいえ、阪神の震災とオウムとを表層的にたどるのではなく、題材は「エヴァ」、慰安婦問題、自社さ連立政権、『敗戦後論』、『1940年体制』、『虚構の時代の果て』、「trf」、「ASAYAN」。
政治・言論・サブカルを題材に縦横に論じます。
「エヴァ」のど真ん中世代ではありながら、著者自身は大学教員になってから講義で使う必要に迫られて見たのだそうで、少し突き放したような筆致が逆に新鮮です。
だって、「エヴァ」を語る文章って、どれも暑苦しいじゃないですか・・・。
ちなみに私は一本も見ておりません。
脚本に関わった知り合いも居たりはするのですが。
というか、私は自分の名前が『攻殻機動隊SAC』の登場人物として使われているらしいのですが、それも見てないので未確認です。
事後承諾だし、ちょい役みたいですけど。
そもそも、ご自身は古い社会派の邦画を見るのが好きなのだそうで、そういう時代時代の空気感を探るのを面白いと感じるタイプの方なのでしょう。
まあ、だから歴史を学問として選んだのでしょうけれども。
そして「エヴァ」を60年安保、70年安保、三島由紀夫の文脈で語るなどしていますが、歴史を勉強することの意味というのは、こういうところにあるのですね。
それにしても政治とそれに関わる評論についての知識が半端ないです。
いくら同時代史で、自分が生きてきた時代のこととはいえ、ここまで流れを追えるものなのだな、と感心すること然り。
自分はと言えば、90年代はほぼニュースステーション的な知識しかなく、ゼロ年代は仕事、10年代は子育てで、政治については熱心に追っていなかったこともあり助かりました。
現在の日本での保守とリベラルの構図になるまでの変遷を、何度か起きた変化のその時点・地点を指摘していて、これは非常に勉強になるのですが、でも、政治というのはやはり論理じゃないんだな、と再確認。
たとえば、小泉が靖国を参拝したときに小泉改革がリベラルの敵となった、というのは、流れとしては多分正しく、でも、なんか虚しいですね。
それが政治だ、と言われるとそうなのでしょうけれども。
上野千鶴子の主張の変遷など興味深いものもありましたが、それにしても、どの時代でも保守からもリベラルからもディスられる竹中平蔵という人は、あれはあれで稀有な才能なのではないかと感じた次第。
また、小泉以降の言論界での「リフレ派」ブームについては、角栄型のバラマキにも小泉型の構造改革も良しとしないけれども、日銀の輪転機ぐるぐるで世の中を良くできるなら、という層に受けたという説明は、森田長太郎『経済学はどのように世界を歪めたのか』にも通じるところがあります。
かの書では、「サイレント・マジョリティ」という語を使い、維新ブームを生んだ層ともマッチするとしていました。
しかし、こういう解説のされ方によって、まさに「リフレ派」とは、経済学やマーケットではなく、政治の話だったのだとわかります。
終章になって、やや唐突に歴史家としての目線で、マクロ的にはアメリカの衰退と中国の台頭の30年間という振り返りが入ります。
それまでの章で、それに自覚的であったり抗ったりする動きにも、それを分析したものにも触れた箇所はなく、それゆえに唐突感があるのですが、それこそが逆説的に政治でも経済でも衰退の一途を辿った日本・平成史の振り返りなのでしょう。
本書自体、右の天皇、左のマルクス主義、1989年にその両方の参照軸が無くなったことから始まります。
その喪失で両方の陣営が右往左往する様は書かれていても、実際に日本でそれ以上のメタな視点・議論がメジャーになり得なかった以上、それを歴史化することもできないということです。
ジャンル問わず、ずっとそのような視点で見てきた人として、北野幸伯・奥山真司・倉山満各氏あたりを挙げることはできますが、まあ、メジャーとは言えませんね。
こんなことを言うのは失礼ですが。
なお、政治と言論については、重厚な分析が続き、音楽もJ-POPやAKBなどは内々のところまで語られるのですが、ちょっとスポーツが弱いかな、と。
サッカーについては、2ちゃんねる、嫌韓ブームの背景として2002年W杯日韓共催は語られていますが、そこまで。
日本代表を通したナショナリズムも、Jリーグによる地方の動きについても無し。
野球も、ホリエモンによる近鉄買収騒動は触れられていますが、ファイターズの北海道移転、楽天球団の誕生に始まる、パ・リーグの地方土着化とかいう話は無し。
まあ、このあたりは分析対象としてやはり好き嫌いは出ますからね。
致し方ありません。
これは、與那覇潤の『平成史』ということで。
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