窪美澄『タイム・オブ・デス、デート・オブ・バース』読了。
映画の『かそけきサンカヨウ』は観ていますが、窪作品は文芸作品としては実は『ふがいない僕は空を見た』しか読んだことがありませんでした。
考えてみたらもう10年以上前の作品なのですね。
どこにでもいそうで、でもどこか壊れた人たちの物語ですが、読み手を絶望に落とすわけでもなく、かといって救いがあるわけでもなく、うまく現実に戻ってこれそうな読後感は、本作でも健在。
こういうのが窪節なのでしょうか。
事実上のデビュー作しか読んでない人間が語るのは非常におこがましい話ではありますけれども。
昔、誰だかが村上龍に「『限りなく透明に近いブルー』が好きです」と言ったら、「作家に対してデビュー作が好きだというのは失礼だ」と返されたという話もあるくらいなので、それとの比較で語るのはこれくらいにしておきます。
本作は、少し頭と体の弱い定時制高校に通う女の子の目線で、『ニュータウンは黄昏れて』よりも更に年季の入った団地での生活が綴られます。
主人公は姉と二人暮らし。
姉は20歳、自身は16歳と少し不自然な居住形態ですが、それは父を早くに亡くしており、母も自分たちを置いて家を出ていったからです。
それゆえ姉は夜の仕事で二人の生活費を稼いでいるし、主人公は昼間はパン工場でバイトをしています。
ネグレクトにあってきた子特有の自己肯定感の低さと、なんとなくいつも周りに流されるばかりだった性格が、ひょんなことから参加することになった団地の見回り活動を通して徐々に変わっていく様が素晴らしい。
でも、姉思いの優しい気持ちは変わらない、というかむしろ強くなっていて、それゆえに終盤には自分の言葉で母との決別もできるほどに成長を見せます。
『ニュータウンは黄昏れて』に出てくる団地は分譲で、まだまだ住民もそこまで老いぼれておらず、登場人物もそれこそ市議会議員になる程度には活動的だったりしますが、本作は築70年とかいうレベルの賃貸がメインの団地です。
当然に取り壊しの計画が進んでいきます。
団地は、もう少し前の時代には本作に登場するぜんじろうさんのように、「お金を貯めていつかはここを出ていくんだ」というあくまでも踏み台の場所でしたが、今となっては行き場のない人々の終の棲家の集合体と化しています。
それもまた、衰退期に入った日本を象徴しているようです。
底辺の人々の暮らしも、もはや成長の歪みや、成長から取り残された人々、という描写ではなく、淡々と衰退する日本の中のありふれた暗部を煮詰めたような描写です。
団地の中の住民は、距離感は近いのに寄り添って生きているわけではないのですね。
実際、彼女らを助けてくれたのはぜんじろうさんだけです。
そのぜんじろうさんの死と団地の取り壊しを見送ってのエンディングで「タイム・オブ・デス」が回収された形。
終盤には、主体的に動くようになってきた主人公が、団地の取り壊しに反対運動を起こしますが、徹底した抗戦というよりは、残った入居者の転居先を斡旋する活動にシフトするなど、現実路線での着地。
それもまた今っぽいなと感じました。
一方、「デート・オブ・バース」のほうは、目に見えての「バース」は登場しません。
登場人物のだれかが妊娠して、新しい命の誕生とともにエンディングみたいな形になるのかな、とも思ったのですが違いました。
あと、テーマが拡散しそうなので敢えて入れなかったのかなと思うのですが、外国人の入居者は出てきません。
今や団地といえば、行き場のない老人と定住外国人の入居者というのがすぐに思い浮かびますが、片方にフォーカスした感じです。
それを交えると、団地は衰退の象徴というよりは、移民を受け入れることによる混沌の象徴となってしまいますからね。
そういった切り口の物語は、また別の作品に期待しましょう。