劉慈欣『三体0 球状閃電』読了。
「Google日本語入力」では「きゅうじょうせんでん」と打っただけで一発変換。
それだけ話題作ということでしょう。
劉慈欣(当然これも「りゅうじきん」で一発変換)の三体シリーズの前日譚とのこと。
それも別に『三体』を書き終えた後に、スピンオフ的にその前段階の話を書いたというのではなく、本当にこの作品を書いた後に『三体』シリーズに進んだということです。
というか、『三体0』というタイトルも日本版オリジナルだそうですね。
その邦題の成立過程については訳者あとがきに詳しく記されています。
丁儀が出てくるので話も繋がっています。
ただ、自分も結構内容を忘れているので、また三部作は読み返さないといけないかもしれません。
本作では三体人は登場しませんが、最後に地球外生命体という観察者の存在がほのめかされるのが、ああ、これが次作につながってくるのね、という納得感を得られて感服します。
観察者が問題になるのは、本作が徹底して量子論にこだわっているからですね。
個人的には、原子レベルでの存在するしないが確率分布だとしても、それがそれこそ本作で言うところの羊だとか人間だとかいった、それらの集合体の存在するしないの確率分布になるというところにはなかなか繋がらなさそうだと感じます。
ただ、著者もあとがきでいつか球電の謎が解明されたらこの作品の解説とはまったく違うものだろう、と書いている通り、SF作品として楽しみました。
主人公の陳は、幼いときに「球電」現象により両親を失ったことで、その謎を解き明かすことに生涯をかける人生を決意しました。
一方、林雲は幼い頃に中越戦争で母を失ったことで兵器への異常な関心を示すようになり、冷酷な兵器開発者となりました。
陳も林雲も、その意味ではその目的を果たしたことになります。
でも、両者の差はどこにあったのだろうと思うのですね。
その後の人生を送るに足る伴侶を得たからでしょうか。
でも、一つのことに打ち込んでいる間は、陳もそれを求めていなかったわけです。
そしてそれは学生時代にすでに将来の妻に見抜かれていました。
自分の凡庸さにも気づき、長い間の目的も達成され、その恐ろしい応用に打ちのめされ、虚無に近い状態だったときに再会した相手と結ばれるというのは、出来過ぎ感もありますが、人生とはえてしてそういうものなのでしょうか。
それを後年冗談めいて「魔が差した」という言い方をすることもありますが。
でも、それで幸せなら誰も文句は言いません。
お幸せにどうぞ、という。
また、丁儀の人生も気になりますね。
本作と『三体』の内容を総合すると、同棲していたダンサーとも結局別れて、楊冬と付き合ったんだな、という。
林雲に引き続き楊冬も、ほぼ自死で失うわけで、酒浸りにもなろうというものです。