上野千鶴子・鈴木涼美『往復書簡 限界から始まる』読了。
往復書簡と言いつつ、どこか公開説教に近いような趣きも。
もちろん、「往復」書簡なので一方的なものではないのですが。
母になることのなかった上野女史が、我が子に語るように鈴木女史を諭します。
本人は最後に「親戚のおばさん」口調になってしまったと書いていますが、親戚のおばさんはここまで口を出してはくれないんじゃないかと思いました。
もしかしたら、上野女史にはそういう叔母・伯母がいらっしゃったのかもしれませんが。
やはりここは、親戚というより母子のようなのほうが適切な気がしますが、ただ、本書で明らかになったように、鈴木女史は相当に実の母との対話を通して鍛えられたようで、そこまでの対峙・関係には至らないという意味で上野女史からは「親戚のおばさん」という言い方にとどめたのかな、という気も。
そこまで深い考えはない、という向きもあるかも知れませんが、何より初回のやり取りで、あなたの先生であったことはないので先生とは呼ばないで、と釘を差しているほどには、呼び名を含めてその関係については意識的にはなっているようなので。
この一連のやり取りの中で、鈴木女史の男性蔑視の原点であったり、被害者然として振る舞うことを拒絶する理由であったり、そもそも夜の仕事に踏み込むことになった背景だったりが明らかになるわけですが、上野女史に「娘の最大の反抗は、親が大切にしている自分自身を思いっきり粗末に扱うことです。そしてそれができるほど、逆説的に親の愛を信じていられたんですね。」と喝破されるあたりがクライマックス。
その後、鈴木女史は、これまでの経験から男に絶望しているとして、上野女史に「上野さんはなぜ男に絶望せずにいられるのか?」と訊ねるのですが、「そういう尊敬できる男女には書物のなかで出会うことができます」という答えが返ってきます。
回答として、「自分に関わってきた男にそういう人がいたから」とか、「そういう人とともに生きてきたのです」みたいな実体験に基づく話にならないところが、上野女史らしいといえばらしいのですが、彼女の限界もそのあたりにあるのかもしれませんね。
そのあたりから、ウーマン・リブ、フェミニズム、ジェンダー論と自身の歴史も踏まえての大きな話、偽悪的に言えば空虚な話に。
対話の中でも、安倍晋三・佐々木宏・森喜朗といったパブリックエネミーの名があがるのですが、「いやー、そんな話をさせたかったのかな?この企画は」と思わざるを得ません。
男に絶望しているという鈴木女史と、していないという上野女史。
絶望しないためにできることとして、上野女史の回答は、素晴らしい男女を描いた書物を読め。
しかし、別に鈴木女史の読書量が少ないとも思えないので、実際のところ、両者の違いは実体験の差異でしかないのでしょう。
で、その差異の原点が、鈴木女史が自身で言うように、高校生時代に生の下着をキモい男に売った経験にあるのだとしたら、いくら書物を読んでもそれは解消されないのではなかろうかと。
アマゾンレビューでも、「鈴木さんを救ってくれるのはフェミニズムではなく、まずはプロのカウンセリングな気がします」という意見がありました。
カウンセリングで彼女を救えるのかどうかは別として、好意的に解釈するなら、そのあたりにフェミニズムの「限界」を感じて、なお「限界から始まる」としたのでしょうか。
あと、これ以外にも、鈴木女史が男に絶望している理由について、同様にアマゾンレビューで、「それとはまた別に、鈴木さんはもっと直接的に深く傷つく何かをご経験されているのではないか」とか、「父親の浮気癖が原因なのかな」とか、本文に書かれてもいないことをあれこれ考察をしている人がいて、興味深いです。
対話を続ける当人たちは無意識なのですが、読み手にはこうしてどこかしら彼女の闇が見えてしまうというこの仕掛けを作った編集者の企画こそが本書の魅力です。
なんとも残酷ですが。
いずれにせよ鈴木女史の抱えているものについて、無理に構造の問題にするのは少し留保したほうが良さそう。
いや、フェミニズムとはそういう学問なのだ、と言われればそうですか、と言うよりほかはありませんが。
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