さて、昨日少し、原秀則『ジャストミート』に触れたので、もう一つの原先生の代表作のことなど。
といえば『冬物語』になるわけですが。
浪人時代を指しての「冬」。
それ自体がもう今日ではあんまりリアリティがないんだろうな、と。
あだち充や高橋留美子に比べると、原先生の漫画が今あんまり語られないのは、そういう時代性を通底としたストーリーだったからなのかな、と感じます。
時代を超えた共感、みたいなものが起こりにくい話の展開。
田中康夫の『なんとなくクリスタル』が今だと読むに耐えない、みたいなのと同じようなものか。
ちょっと違うか。
趣味・趣向の時代性の話ではないので。
『なんクリ』は、本文よりも注釈のほうが長いというその構成も含め、当時は議論になったとか。
あれは文学ではないとか、あれはあれで本文の薄っぺらさも含めて時代への批評になっているとか、そのあたりの文壇まわりの現象も含めて面白さを感じ、90年代、大学生になってから読みました。
自分としては、どこかで目にした「あれは松本出身の一橋の学生が書いたものだということを念頭に読まないといけないよ」という忠告が秀逸でしたが。
当時すでに「文化社会論」とかその手の講義で取り上げられるほどには、歴史上の作品でした。
村上龍の『限りなく透明に近いブルー』との対比で題材になっていましたね。
村上龍の時代にはまだかすかに残っていた抗うべきものとしてのアメリカは、田中康夫の時代にはすでに内面化されてしまっており、それを顕在的に意識することもない、と。
「限りなく透明に近い」と「なんとなく」の対比。
江藤淳の議論だったと思います。
しかしそんな、あったのかもしれない批評性への幻想も、近年『33年後のなんとなく、クリスタル』を読んで吹っ飛びました。
というか、正確には読破できずに挫折したのですが。
何度となくトライしたのですが、やっぱりだめ。
とても読み終えるまでに至らず。
33年経ったのは良いとして、やっぱりあの薄っぺらさは、時代への批評なんかじゃなく、本当にただ本人が薄かっただけじゃないですか?
と考えざるを得ず。
あー、この人はこの程度のことしか考えていなかったのか、と。
それで政治の世界にまで入り込んで脱ダム宣言とかしちゃったんかー、と。
バブル世代の成れの果ての悲しさに、そっと本を閉じる。
バブル世代の人たち特有の薄さについては、大宮冬洋『バブルの遺言』がおすすめ。
アマゾンレビューで、「内容が薄かった」というのがあるのですが、それ、インタビューした相手の人生が薄いのであって、大宮くんのせいじゃないから、というのが私の印象。
相手からここまで聞き出して膨らませてなおかつ全員を褒めるのか、という大宮くんの技量を見るべき本。
話がそれました。
『冬物語』の件でした。
『冬物語』の今日でのリアリティの無さを挙げると、
主人公が受験に失敗し浪人するという点。
一浪で、もっともレベルが低いとされる八千代商科大(架空)に合格するも悶々とし休学する点。
2年遅れで専修大学に補欠合格で入学する点。
学生時代の後輩に、今も予備校講師をやっているヤツがいるのですが、
「もう今は『冬物語』なんてありえない世界ですからね。まず浪人しないですよ。ほとんど。それを二浪して専修とか、絶対にないですから。」
と言っておりました。
もう、それ以上の解説は要らないくらいの発言です。
今や大学全入時代。
望めばどこかには進学できるわけで、トップレベルの大学でもないのに浪人という選択肢がまず、無い。
Fランに進学したからといって、そんなことに悩むような人間も、いない。
一念発起して勉強したら、専修にしか受からないとかいう事態には、ならない。
というわけでもはやリアリティの感じられないストーリー。
ちなみに『冬物語』、映画にもなっているのですが。
奈緒子役が宮崎萬純さんなんですよ。
あの人、ビーバップの印象が強すぎて・・・。