シンシアリー『日本人を日本人たらしめているものは何か』読了。
日本への帰化申請を終え、許可が出るまでの今だからこそ書ける内容ということでしょう。
いつもの日韓比較に加え、率直な心情の吐露もあります。
日本国籍を取れたとしても、「日本人」にはなれないのではないか。
そんな思いから発展して、民族とは何か、という考察を韓民族という括りにこだわっていた自分を見つめ直すこととなったようです。
昔、教科書レベルで教わった「国民国家」とか「想像の共同体」とか、そのあたりのおぼろげな知識が頭をよぎります。
シンシアリーさんは、それらを学問の知識としてではなく実体験として今まさに直面しているのですね。
そういったご自身の内面を整理しながらの論考なので、どうも気分は湿りがちで、読む人によっては気分は晴れないかもしれません。
それらを取り除いた上で、日韓の比較文化論的に見てみると、実は日韓の差として紹介している事例でも、「いや、それって日本についても言えることじゃない?」みたいなところは散見されます。
だから分析としてダメだということではなく、「あーそれって日米比較とか日欧比較とかの文脈では出羽守の方々に日本下げのネタにされているよな」と苦笑するだけなのですが。
事程左様に韓国は日本の写し絵のようではあります。
例えば「グクポン」と呼ばれる韓国上げの偽ニュースのコンテンツの流行について苦言を呈していますが、日本でも「日本スゴイ」系のテレビ番組やYouTubeコンテンツはいくらでもあるじゃないですか。
まあ、韓国のそういうコンテンツのほうが程度が酷いとか受け入れられ方が熱狂的だとか、そういう方面での擁護はできるのかもしれませんが。
本書でなるほどと思ったのは、韓国の反日は単に国是となっているだけでなく、「韓民族」の成り立ちに関わっているからだという分析です。
韓国併合について著者は、当時の大韓帝国は憲法があったわけでも国会があったわけでもないので、皇帝が「併合しよう」と言えばそれで終わりだったのだ、と多少突き放した言い方になっていて、「言い方!」とは思います。
でも、その時点では半島をまとめる「民族」という概念はなかったので、そこで民族愛みたいなものを持ち出すからおかしくなるというのは、的を射ています。
巷間よく言われるフィクションとしての抗日運動や「大韓民国」建国の物語ですね。
ただ、それを言うと日本の明治維新も実態としては士族によるクーデターという側面が強いわけで、「日本人による無血革命」とか大上段に構えた議論を進めると痛い目にあうのと同じです。
(まあ、そんな事を言うと、イギリス相手に独立戦争を戦ったアメリカと、勢い余って王様をギロチンにしちゃったフランスくらいしか市民革命に寄る民主主義を手に入れたと胸を張ることは出来なさそうで、それはそれで窮屈ですけれども…。)
そして、それは1945年のときも同じで、韓国に対して自分たちで独立を勝ち得たわけではない、という揶揄は、日本が平和国家になったのも日本が戦争に負けてアメリカが国を作り直してくれたからでしょ、みたいな議論とそんなに距離があるわけではないかもしれません。
それもこれも、日韓で比較するからなのですね。
昔、佐藤俊樹先生の組織理論の講義で、文化比較をやる際は2つの比較だとブレることが多いので、本当に比較したいなら最低でも3つの題材で比較しないと意味がない、という話があったのを記憶しています。
でも、2つだと比較軸は1本で済むけれども、3つになると3本になって手間が3倍になるから、あまりそこまでやりたがる人はいないのだ、とも。
シンシアリーさんは作家ではあっても学者ではないし、ご自身でも自分は韓国と日本しか知らない、と言っているので、それ以上の比較をする気はないのでしょうが、それゆえに過剰に韓国下げ日本上げみたいに見えてしまうところはあります。
本書の副題は「韓国人による日韓比較論」です。
それ以上でもそれ以下でもないことを理解した上で読み込むべき一冊。