レジー『増補版 夏フェス革命』読了。
2017年に発行された本の内容にコロナ禍以降の流れを補論として加えたものとのこと。
当然のことながら2017年時点では、数年後にコロナ禍によってフェスが壊滅的な事態に陥るなんてことは予想できていないわけで、生モノのビジネスを分析することの難しさというか儚さすら感じますね。
著者は音楽評論をしつつも、本業はコンサル勤めの方だそうです。
プロフィールには、海城から一橋とあります。
音楽評論の人、実は高学歴説、あると思います。
定性的な業界分析と、ざっくりとした予想も交えた定量的な分析との心地よいミックスが売りなのでしょうか。
さすがコンサルの人。
音楽そのものの分析が少ないようにも見えましたが、それを期待する人は読むべきではないのでしょう。
のっけからデータで示されるのは、1998年をピークに音楽ソフトの売上がみるみる下がっていること。
そのときに6000億円強を記録し、直近の数字ではほぼ半減。
ちなみに1998年がピークなのは、小室哲哉の最後の輝きと宇多田ヒカルのデビューが重なったからでしょうかね。
自分らが学生時代だった20年以上前の話ですが、研究室の指導教官からは、
「日本での豆腐の売上規模が年間6500億。音楽業界はそれより小さい。」
と繰り返し言われたのを覚えています。
だからだめだとか意味がないとかいうのではなく、「あんまり特権意識を持つな。
所詮は豆腐産業程度の規模だ」ということを言いたかったのだと今は理解しています。
ただ、本書のデータで面白いのは、音楽ソフトの売上(CD+配信)が落ち込む中、「コンサート」の売上が右肩上がりで推移し、ついに2015年に両者が逆転していることですね。
本書はそんな「コンサート」枠でゼロ年代以降伸びてきた「夏フェス」についての論考ということになります。
著者自身が高校生時代に初めて参加したフェスでの原体験から、多少の違和感を感じるようになった昨今での現場での経験などを通して、フェスの変遷と社会の変遷とを分析しています。
副題は「音楽が変わる、社会が変わる」というものです。
この文だけだと、どちらがどう影響を与えたのか、というところまで見えませんが、意図的にそうしているのでしょう。
スマホの普及、mixiまで振り返ってのSNSの勃興といった社会の動きとフェス的な音楽消費のされ方の相互作用が語られます。
そして、そういう受容のされ方をイベンターが積極的に受け入れたことでフェス人口も増え、ビジネスが拡大したこと。
それから、今ではミュージシャンの1年の過ごし方がフェスを中心に回るようになってきたことなど、面白い指摘が続きます。
終盤には、フェス参加人口の高齢化やイベンター側のその対策の紹介などにも触れています。
参加者の高齢化ということで言えば、今年、フジロックのCMが少し炎上しましたよね。
スーツ姿の40代くらいのサラリーマンが渋谷のスクランブル交差点でいきなり踊りだすやつ。
おっさんが踊りだす姿に嫌悪感が表明される一方、参加者層ど真ん中だし、みたいな声もあったりして。
『明け方の若者たち』(2021)でも、主人公の上司は「毎年フジロックに参加しちゃう人」という括りでのおっさん扱いでした。
『モテキ』(2010)の主人公が、音楽を楽しむべく1人でフェスに参加しながら、カップル参加だったり出会いを求めての参加だったりする層を心の声で揶揄していた時代からは、かなり違ってきているのも事実なのでしょう。
この10年での「音楽が変わる、社会が変わる」は、このあたりの差にも現れているかと。
補論については、コロナ禍以降の壊滅的なビジネスの縮小に触れられています。
今後どうなるかとかいった分析よりも、各フェスがコロナ禍でどういう対応を取ったか、ということの整理に紙幅を割いています。
フェスだけでなく、プロ野球やJリーグでも、有観客開催はともかく声出し応援などまだ議論含みのことは多く、今後のことを語るのは難しいですからね。
フェスの歴史について一通り知るのに便利な一冊。
で、ここから先は雑談なのですが、かくいう自分は、実はフェスなるものには一度も参加したことがありません。
ゼロ年代は馬車馬のように仕事をしていたし、この10年は子育てがメイン。
とても音楽イベントに出かけるような余裕はなかったですね。
なので、「フェス」という言葉も、あまり親近感がないというか。
昔は、行政も巻き込んでの大型の音楽イベントとなったときには、「野外レイヴ」というくくりで話をしていたように思います。
この「野外レイヴ」という言葉も奇妙といえば奇妙で、普通レイヴは野外だろうと思うのです。
でも日本では、レイヴという触れ込みの「WIRE」が横浜アリーナという屋内での開催だったころから、こういう語の使い方になったんじゃないかな、と自分は考えています。
90年代当時、レイヴ・カルチャーはそれまでのスノッブなクラブ/ディスコ・カルチャーとは違うのだ、という主張がありました。
そこでは主役はクラウド(聴衆)で、だから、コンサートのようにステージを向いたり、ディスコのようにDJブースを向いたりして踊るのではなく、みな思い思いに楽しんでいるのだ、みたいなやつです。
皆自由に楽しんでいるのだ、というか、楽しむべきだ、みたいなノリといったほうが強いのかな?
『クラブミュージックの文化誌』とか『エレキング』とかそのあたりの流れだったと思います。
本書を読んで、「フェス」は、音楽的にはそこからの派生ではないですが(、というか音楽ジャンル的にはちゃんぽんなのも売りの一つ)、そういうフェスという空間そのものを楽しむ人によって広がってきた、という意味では「レイヴ」の正統後継なのではないか、と感じました。
それでもいざそういう楽しみ方が主流になると、もともと音楽そのものを楽しんでいた層からは遊離したりするのは、面白いですね。
一昔前なら、そういう層の代表がライターとして音楽雑誌に寄稿したりしたのでしょうが、いまや最大のイベンターが音楽雑誌だったりするわけですし。
このムーブメントは、サード・サマー・オブ・ラブとでも?