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映画『茜色に焼かれる』視聴。
コロナ禍での格差拡大と、そのしわ寄せをもろに食らった弱い人々を中心とした物語です。
冒頭、オダギリジョーが老人の暴走車にはねられて死ぬ過去のシーンから始まります。
ワイドショーでよく使われるような安っぽい再現CGを使っていて、予算の都合があるにせよこういうのはありなのかと驚きましたが、後のシーンでもそれを使いまわしていて、ここがCGである理由もあるにはあるのでした。
とはいえ簡素なこの最初のシーンで、観客は本作の鑑賞については尾野真千子の演技力に全てを委ねるという覚悟を求められます。
なので、低予算邦画を敬遠したい向きはここで振り落とされるわけで、その意味では素晴らしい入り方です。
そして、シーンは事故から7年後のその加害者の葬儀へ。
なぜか葬儀に参列しようとして遺族に拒否されるオダギリジョーの妻である尾野真千子という絵面から、状況が諸々説明されます。
加害者は元官僚の老人でアクセルとブレーキを間違えたとか、逮捕もされないとか、例の事件を想起させます。
このあたりで本作の描こうとするものもなんとなくもう見えてきて、ここでも脱落者は出そうです。
登場人物がマスクやフェイスシールドをしていることで、コロナ禍の日常であることも無言のうちに説明されるのですが、それだけで映像に息苦しさが感じられるのが不思議なところです。
それはまさに今の自分らが生活しているこの空間であるはずなのですが。
その後、登場人物のセリフや映像を通して、主人公たちの置かれた環境が観客に知らされます。
尾野さんが保険金を一切受け取らなかったこと、だから生活が苦しいこと、なので中学生の息子と二人で市営住宅に暮らしていること、花屋のバイトとそれだけでは暮らせず風俗店でも働いていること、さらに脳梗塞で倒れた義父の施設の費用を負担していること、オダギリさんの愛人の子どもの養育費まで負担していること。
コロナ禍が広げた格差と社会の分断、皆むしゃくしゃしていて、それは弱いところに更にしわ寄せがいくのだという図がこれでもかと繰り返されます。
風俗店では客が風俗嬢に当たり散らし、息子はクラスでいじめのターゲットになり、彼女自身は花屋のバイトはクビになり、不倫相手には弄ばれ。
作中、尾野さんは「どうして怒らないの?」と何度と無く問われます。
最初のうちは「まあ、頑張りましょう」と返していた彼女も、怒りで体を震わせるくらいには事態は厳しくなっていき、最後は爆発します。
でも、その矛先が不倫相手でしかなく、殺しも未遂に終わるあたりがひたすらに悲しいのです。
最後その事態を収拾してくれたのは勤め先の風俗店の店長の永瀬正敏。
いいところを持っていきますね。
こういう底辺の人々のセーフティネットというかケツモチというか、そういう役回りを反社に近い人々が務めるのは、この手の作品のお約束ではあります。
いや、それは望ましくないのだ。
こういうところに、NPOを通じて公金を投入してですね、とかいうと話がずれそうだし、また別のナニカがやってきそうなのでやめておきます。
作中、尾野さんの同僚(片山友希)が妊娠をします。
子どもを堕ろすためのお金を用意するためにヒモの男が駆け込むATMが東和銀行なんですよね。
運転している車も大宮ナンバーです。
そして、街を走るバスは国際興業バス。
主題歌は「GOING UNDER GROUND」の昔の曲だし、監督は石井裕也です。
埼玉っぽいなぁ、と。
センター街でのシーンが多いので、尾野さんたちが働いているのは渋谷でしょう。
渋谷も、再開発が進む街並みではなく汚さを際立たせたセンター街で、生活空間は荒廃した埼玉の大宮以北で、本作にはどこにも上流の絵がありません。
強いて言えば、交通事故の加害者の葬儀場くらいでしょうか。
格差拡大というより、皆一様に貧しくなっていってませんか、という映像の作り方を見て取れる一本。
U-NEXT、dTVでも観られます。