天花寺さやか『京都へおいない』読了。
京都生まれ京都育ち京都在住の著者によるエッセイ集。
ダークサイド要素ゼロの京都娘という感じで、たまにこういう人いるな、という印象です。
このまま暮らしていけるなら、こんなに幸せなことはないです。
京都に住んでいたときに借りていた駐車場の事務所で、経理をしていた娘さんがこんな感じの人でした。
一族でそこの駐車場を経営しているのでしょう。
月末に事務所まで現金でお代を払いに行くと、親戚一同的な役員が勢ぞろいで、世間話で結構な時間を取られるのですが、そのなかでも本当に世間ずれしていない娘さんでした。
娘さんと言っても主婦なのですが、周りのお姉さんからも「この人、京都から一歩も出たことないの。」と言われていました。
さすがに修学旅行とかで出たことはあるんじゃないかと思いましたが、まあ、そういうのは野暮ですね。
そんなことを言われても、本人は特に怒るでもなく普通に受け流してましたが。
裏表が無いので、話をするのは楽なんですけどね。
著者は、京都の町の特徴として、住民同士の結びつきが強い一方、観光都市であるがゆえに、初対面の人や知らない人に慣れていることを挙げています。
この点、同意します。
自分は京都に住んでいたことがあると言ってもマンション民でしたし、町内会費は取られるものの回覧板も回って来ず、イベントごとにも無縁な生活でした。
それでも街なかを歩いていれば、毎日必ず知り合いに会いました。
どこにでかけても誰かしらには会うので、とても悪さは出来ません。
ま、別にしませんけど、そういう適度なこじんまりさというか、顔の見える関係性は感じます。
そして、それはあの町に暮らし始めてすぐに築けた関係性で、そういう意味ではよそ者との付き合いにも慣れているのですね。
よそ者をよそ者として遇する術を、誰もが持っている、そういう町でした。
で、そのよそ者がそれ以上の何かになるには、多分、何世代か必要なのでしょう。
著者自身は京都生まれではあるものの、ご両親は他県出身とのことで、あまりねじ曲がっていない性格はそこに由来しているのかな?なんて意地の悪いことを考えてしまいましたが。
それでも、ご自身に子どもが出来て、その我が子に声をかけるとき、とっさのタイミングで普段使っていなかった京都弁が出てしまった、なんていう記述があり、こうして京都人になっていくのか、と。
本書後半は、著者が長年悩まされた頻尿についての体験記。
単なる頻尿ではなく思わぬ病だったことが明らかになる形で克服されるのですが、それにいたるまでに著者が獲得した心構えは参考になります。
京都人にも、心のきれいな人はいるのですよ、ということがわかる一冊。