御田寺圭『ただしさに殺されないために』読了。
白饅頭こと御田寺さんのツイッターはたまにお見かけしています。
しばしばTLに流れてきますね。
この視点面白いな、と感じることも多いのですが、noteに飛んでここから先は課金、という形になっていると、まあ、そこまでして読むこともないか、となることが多いのも事実。
ああいうところの心理的なハードルというのはどのあたりにあるものなのだろうと自分でも不思議になったりしますが。
多分、そこで書かれたことを再構成したものが本書になっているのだろうと思うのですが、逆に本の形になると手に取りやすくなります。
それもまた、不思議ですね。
で、読後感としては、やはりツイッター向きの書き手と書籍向きの書き手がいるのだな、というもの。
どちらが良い悪い、というものではないのでしょう。
ツイッターはやはり煽りがないと面白くないところはあるし、本になる文章は、どこかその単体で論理が完結できるものを読者としては求めたくなります。
そういう意味でいうと、綺麗事しか言わないアカデミズムや各種の運動に対するカウンターにはなりえても、そこから先どうしていこう、という明確なビジョンのようなものは、本書からは見えません。
まあ、そんなものすぐに見つかるわけないでしょ、というのは百も承知なのですが、章によっては読者として時折投げっぱなしジャーマンを食らった感があります。
言っていることも、カウンターの域を出ないというか。
いや、この手の論調は、カウンターのカウンター、ということになるのかな?
一応、著者としては、それら言いっぱなしになっているすべてのものの回答になりそうなものを終章に用意していて、それを「物語の否定」と呼んでいます。
でも、すべてのものの回答になりそう、というのはともすると何にもならない、の裏返しでしかなかったりしますよね。
そこまで言わないまでも、そういう姿勢を読者一人ひとりに求めることで本を終えているのは、きれいにまとめられちゃったな、という感は残ります。
ツイッターでの煽りに比べると随分と穏当な落とし所ではありますが。
本書を手に取ってくれた、そして最後まで読んでくれたあなたならわかってくれるはず、みたいなところはあるかもしれません。
リベラルに対するカウンターという立ち位置では、昔よく読んだ高山正之さんの一連の本のような印象は受けます。
それでも本書の論考からは、当時の高山さんに感じたような右寄りな印象は受けないのですね。
これは、高山さんの全盛期に比べても、リベラル勢の言説がだいぶズレ始めてきていることの証左なのかもしれません。
能力主義に触れたところでは、サンデル教授の『実力も運のうち』の内容も援用していますが、サンデル教授の主張とは若干異なり、能力だけは最後まで許される差別だ、としているところは興味深いです。
教授は、近年のトランプ現象やバイデン当選といった米国の流れを踏まえ、能力主義が最後まで唯一絶対のもので有り続けるとまでは言っていません。
この違いは、日本ではまだそういった動きが主流になったり政権を取ったりしたわけではないからとも関係してくるのかもしれません。
あとは、あの本の解説でも触れられていましたが、メリトクラシーを日本語で「能力主義」と訳してしまうことで、少し意味合いがずれるというか、場合によっては「功績主義」としたほうが訳としては適切であったりするところとも関係してくるかな、と。
仮に、能力による差別は最後まで残る、そして許される、としても、「能力」を直接測ることは出来ないので、日本では決定的に問題になることはない、と言うのは楽観的すぎるでしょうか。
もちろんそれは、何者でもない者として能力主義社会で生きる我々の側の最後の心の砦として残る何かですね。
極論を言うと、どんな生活を送っていても『俺はまだ本気出してないだけ』としてやり過ごすことはできる。
いや、まあ、本人がそう思っていても、周りから見たら十分にイタい人ですよ、というのがあの映画の面白さの源泉ではありましたけれども。