レイ・ダリオの『PRINCIPLES』再読。
定期的に読み返す一冊です。
自分もまた、サイズは異なるとはいえ投資家だから、その生き様が参考になる、というのも少しはあります。
でも、本書が何度も読み返す対象になっているというのは、逆に言うと、こういう産業で参考になる人・思想を見つけるのは難しいということでもありますね。
特に日本では。
トヨタだ松下だ稲盛だ、といってみても、やはり製造業の話。
じゃあ中内か?と考えてみても、流通業でいかに右から左に効率よく物を動かすか、というレベルの話が参考になるとも思えません。
まあ、こうやって書きだしてみても、それ以降の人の名前が挙がらないのが、また、失われた30年間感を醸し出しますが。
あえて挙げるなら誰になるんでしょう。
ワタミ?竹中?柳井?三木谷?
ロスジェネとして悲しくなってくるので止めておきます。
本書はレイ・ダリオの自伝の部と、人生を送る上での考え方の部と、組織論の部の三部構成です。
自伝の部については、Amazonレビューでも「中産階級とはいえ、そもそも1949年にアメリカに白人男性として生まれたこと自体が途轍もない幸運」というものがあって、これはグーの音も出ない正論ですね。
なので、人生のこの局面でこの選択をしたから今の自分がある、みたいな説明には説得力がないのは事実です。
でも、逆に我々が、1970年代に日本で生まれたことが途轍もない不運と言えるかというと、自分はそうとも思えないのですね。
もちろん生存バイアスはかかっています。
もし自分が、今もなお企業の歯車として、団塊・新人類の世代とゆとり世代との狭間の調整役として苦しんでいたりする立場にあったりなんかしたら、話は別でしょう。
あるいは、そんな狭間の世代はもう要らないよね、と40過ぎて放り出されたりしていたら、生まれた時代を恨む以外のことはできてなかったかも知れません。
ただ、少なくとも、赤紙一枚で北支戦線に赴け、とか特攻で敵艦に突っ込め、とか言われることはなかったわけで。
いや、そこと比べても、というのはありますし、だからこそ生存の危機も貧困の危機もなかった上の世代を羨む目線が無いわけではないです。
でも、生まれる時代・場所・関係性は選べませんから、そこにこだわっても仕方ないですね。
自分たちが逃げ切った後に、「ともに貧しくなろう」という上野千鶴子的な精神には呆れるばかりではあるわけですけれども、それはそれとして。
なお、常日頃の彼の言動が、あまりチャイナについて悪く言うことがない、というよりむしろ沈みゆく大国としての米国と勃興するチャイナの構図を描きがちなのは、一つには彼と彼の息子の人生にチャイナが深く関わっていたからだということが知れただけで、この部に収穫はあります。
特に王岐山に心酔しているのですね。
はい。よくわかりました。
最も参考にすべきは、次の人生の原則についての部です。
具体的なエピソードから引き出すものが、かなり抽象度が高くなったりしていますが、原則とはそういうものですね。
無意識とか頭の配線とか、そういう言葉が散りばめられていて、最初に読んだときにはあまり頭に入ってこなかったのですが、先日の『スピリチュアルズ』を読んだ今なら、なるほどと思えることも多くあります。
自分についてもそうですが、人と付き合う上でも、ある程度判断枠組みを持った上で対峙するのが大事だとしています。
当初は、「人の頭の配線はそれぞれものすごく違う」と言いながら、人物像を○○型▲▲型と類型化していて、矛盾しているじゃないか、と思ったものですが、これもその手の心理学の果実を踏まえた上での考えだったのでしょう。
それ以外にも、徹底的にオープンになることを練習しよう、と説いているのは、逆に言うと、ミスを苦痛と考え、そこから身を守ることを優先させてしまうことは、人間の本能に根ざしたものであるので、そこを意識して矯正しようということでしょう。
これも、はじめは単なる年長者からの人生訓として捉えていたのですが、脳科学方面からの合理的なアプローチとして考えるのが自然なのですね。
最後の組織論のところは、今や自分は、何らかの組織を率いているとか属しているとかいうことは無いので、直接参考になる部分はさほど多くはありません。
ただ、人間はこうやって動くものなのだ、ということを知っておくのは大事かと。
強いて言うなら、家族運営とかに活かせますかね。
レイ・ダリオが説くのだから、必然的に頭脳労働を行う組織の運営についての話になります。
基本姿勢として、人はみな、頭の中の配線が異なるのだから、フラットになんでも話し合える環境でアイデアを出し合って最適解を実行していこう、というものがあります。
それができる組織づくりのための知恵というか方策が、いくつも例示されているのですね。
トヨタのカイゼン方式の頭脳労働への取り込み方みたいなものですが、パーツを取り替えるがごとく人を替えるのは、日本企業では難しいだろうな、と感じます。
一年経ってだめだったら出ていってもらおう、みたいなことは日本企業では言えないでしょうけど。
ただ、このレイ・ダリオの組織論の背景には、別にうちの会社に溶け込めなかったからと言って、それがなにかの能力の欠如を直ちに意味するものではないし、
さっさと自分が輝ける他の会社に移らせてあげたほうが良い、という考えがあるのですね。
本当はそれが理想だし、それができれば苦労無いよ、と。
そういう意味で、前提としているのが、かなり上のホワイトカラーの中での話で、
非熟練工を使っての工場の運営とか、何らの向上心もない事務職員を使っての零細企業の経営とかとは、違う世界。
意外とこの原則を適用できる会社は、日本の運用会社であっても少ないかな、という気はします。
再読してなお、得るところのある一冊でした。