アンドリュー・マカフィーの『MORE from LESS(モア・フロム・レス)資本主義は脱物質化する』を読了。
なんとなく直感で感じていたことに裏付けを得られたような感。
人間はこのままの暮らしを続けていいんだ、とか、このままやりたい放題やっても世界は破滅しないんだ、とかいう総楽天的な態度を肯定する内容では無いものの、資本主義と技術革新、そしてその先の未来には希望を持って良いのだ、という意識にはさせてくれる本。
そして何より直感を阻んでいたのは、幼い頃からの刷り込みだったので、やっぱり教育って良くも悪くも大事だね、という感想を持ちます。
自分がうっすらと感じていた直感というのは、「技術の進歩で以前よりも資源を使わなくなっているのだから、経済成長とともに破滅が近くなる、的な議論はおかしいんじゃないかな?」というもの。
その説明には、マクロの数値を使って大仰に構えなくても、レジャーでドライブに出かける代わりに、例えば自宅のゲーム機でグランツーリズモに興じました、的な話で良いのです。
ゲームでいくら興奮しても、直接的にはガソリンも燃やさないしCO2も排出しません。
発電するときのエネルギーが、とかいう議論は別にあるとしても、ゲーム機を動かすのに必要なエネルギー量はクルマの内燃機関を動かすよりは少ないでしょう。
それは余暇の話だから取るに足らないとしても、ビジネスであっても、第一次産業から第二次産業への進化に伴い、とか大昔のことを言わずとも、サービス業内での話ですら、取引先へ郵送していた書類がメール添付とかクラウド参照で済むようになったら、物理的に物が移動する必要がない分、環境への負荷は劇的に減っているでしょう、とか、枚挙に暇はないわけです。
本書でも、スチール缶がアルミ缶に置き換わり、さらにそのアルミの厚みがみるみるうちに薄くなったとか、ラジオとかテープレコーダーとかビデオがiPhone一台で十分に代替できるようになったとか、そういう事例で説明しています。
この本ではこれらを「脱物質化」という言葉で括っています。
経済成長の割に、エネルギー消費が増えていない、と。
先進国ではもう資源消費量はピークを超えた、と。
当然これは、もう少ししたら、全世界的に経済成長しているのにエネルギー消費は減る、みたいなところに行くんじゃ?
という期待も込みの話です。
今まであれば、直感としてそう感じたとしても、「それはお前の視野の狭さで日本を始めとした先進国の極々一部の話で、世界を見れば人口は増えまくっているし、チャイナは資源を使いまくってるし、環境は汚れる一方で」という反論はすぐに自分の中でも作れました。
もちろんそれに再反論するほどの材料も気力も持ち合わせていないわけです。
印象としては、相変わらずアメ車の燃費は悪いし、チャイナは資源をガブ飲みしている。
そうだよな、じゃあ、自分個人としてはせいぜい資源の無駄遣いに気をつけます、くらいのことしか言えない、と。
小学校の5,6年だったと思いますが、社会の時間でローマクラブの「成長の限界」レポートのことを教わった記憶があります。
人口が爆発するとか、石油が枯渇する、というのは子供心に響いたのですね。
この豊かな生活はいつまでも続くものではない、みたいな意識がそこで潜在下に埋め込まれたというか。
また、当時は冷戦真っ只中で、いつキューバ危機のようなことがきっかけで核戦争が起きないとも限らない、という考えもありました。
これもまた社会の時間の話ですが、世界終末時計とかいうのありましたよね。
そうでなくても、ノストラダムスの大予言がサブカルというよりはもう少しメイン寄りで一般教養の一部になっていたような世代です。
1999年7の月とは言わないまでも、いつかは破滅、という意識はずっとあったような気がします。
多分、我々よりもう少し上の世代だと、科学万能・経済成長万能的な意識だったろうし、下の世代になると、もう物心ついたときから失われた30年なので、日々の生活が精一杯でそこまで頭が回っていない、というところかもしれません。
そんなことより当座の生活、でしょう。
まあ、その世代を生きているわけではないので、どちらも想像ですが。
いずれにせよ、ことほど左様に、経済成長とは環境に負荷をかけるものという刷り込みをされていて、なかなかその殻を破るのも難しいわけですが、本書ではそれを覆すデータを挙げながら進みます。
そして、それが起きる条件や起きた経緯を整理しています。
途中、公害の悲惨さや社会主義へのディスりも入れつつ、わかりやすく「希望の四騎士」として、
テクノロジーの進歩
資本主義
反応する政府
市民の自覚
というものを上げています。
下2つにも結構な紙幅を割いているのは、資本主義の限界だとか欠点だとかについての説明とそれを補完するものについての解説が多いからでしょう。
経済学でいうところの外部性の議論、より具体的には公害にどう対処するか、の話です。
排出権取引の導入がうまくいった例などを挙げていますが、要するに資本主義は値付けできないものは扱えないので、扱えるように政治の側で値付けの仕組みを作ってあげれば良いし、それをさせるのは市民の側の意識の問題としています。
資本主義だから公害に対処できないのではなく、対処法を資本主義の枠に押し込むのが政治の役割で、それは民主主義社会においては市民の自覚にかかっている、と。
別に高度な議論でも無いのですが、そのあたりまで読み進めれば、決して、「地球はあと3年ももたないから大学を休学する!」とかにはならないですね。
件の彼女を見て懐かしさすら覚えたのは、実は自分の学生時代にも、そう言って大学を辞めちゃった人がいたのでした・・・。
京都会議に参加する、とか言って。
ところでこの本の最初(p.17)にあるマルサスの『人口論』の記述は筆が滑ったか誤訳。
「あるカップルに子どもが2人生まれ、その子たちに2人ずつ子どもが生まれ、同じことが順々に続いていけば、1世代ごとに子孫は倍増し、2、4、8、16、と増えていく計算だ。」
違いますね。
一つのカップルに2人の子なら人口変わらないし・・・。
人間って有性生殖なんです。
どうもこの本、既述のように受けが良さそうな世代が狭いのか、日経がゴリ押ししている割には、今日(2021年1月2日)現在、Amazonでのレビューはゼロです。
翻訳を企画した人は我々と同じ世代なのかな?
今頃反響の少なさに驚いているかもしれません。
環境問題に取り組み勢い余って大学を休学したり退学したりする人が増えないように、本書が売れてほしいと願う今日このごろです。