東浩紀の『ゲンロン戦記』を読む。
昔は痩せていた東浩紀。
一部ではアイドル的な人気があったように記憶しています。
でも、太ったせいなのか、SNSのせいなのか、イジったら面白い人みたいな扱いに。
「あずまん」という愛称も、なんとなく親しみというよりは侮蔑に近いようなところも。
度重なる炎上案件でも、当人はあまり気にしている風も無さそうで、精神的に(肉体的にだけではなく)よほど太い人なのかと思いきや、本書で明らかになったのは、単に会社経営がうまくいってなくて、ネット炎上ごときに精神をすり減らしている場合じゃなかった、という事実。
でも、それらの内情も含めて開示してしまうのは、やっぱり只者ではない、というと褒め過ぎで、ズレている、というと露悪的。
Amazonレビューでも、「優秀でいらっしゃるのに会社経営のイロハも知らないどころか、帳簿もまともに付けられなかったんですねぇ」みたいな感想が見受けられますが、創業社長がお金の計算もまともにできない、みたいなところは、世のスタートアップだって、大なり小なり同じようなものだと思いませんか?
ちゃんと簿記2級まで取ってから起業しました、なんて話聞きませんよ?
勢いだけで起業しちゃって、それから悪戦苦闘するんですよね。
大半は、そのまま沈没しちゃうんでしょうし、だからこそ「10年で9割の会社が倒産する」みたいなことになっているわけで。
表紙カバーの写真を見ると、曲がりなりにもそこはクリアできたという自負が、なんとなく見え隠れしてきます。
確かにそこは誇っていいと思うのです。
いや、そうではないんだ。
東に求められていたものは違うんだ。
そんな俗っぽい世界の話なんか聞きたくないんだ。
そんな意見もあるようです。
でもですよ。
もし彼が、この10年を大学で仕事をする人生を選んでいて、そしてそれを今振り返って本にしました、とか言われたらどうでしょう。
大学内部での人事抗争とか予算獲得争いとか学内政治のアレコレを登場人物をイニシャルにして語りつつ、カバー写真で本人が、でもおれは准教授になったぜ、みたいな目線を投げる本。
いやー、つまんねーーーーーーー。
と思うんじゃないでしょうか。
キングビスケット先生のように、途中で地が出てしまい大学を追い出される、みたいな顛末だったら、本になっても面白いですが・・・。
いや、あれは笑い事では済まなそうな案件ですが・・・。
いや、そうじゃない。
大学人で居てほしいわけじゃなくて、批評家としてまっとうに批評の世界で生きてほしかったんだ。
そんな意見でしょうか?
まあ、そうなんでしょうね。
大方の昔からの彼の読者からしたら。
ただ、彼自身がそういう生き方を求めていなかった、ということなのでしょう。
時代がそうさせたとも言えますが。
国立大学の独立行政法人化以降、大学人も世捨て人のようにただ哲学だけをしているわけにもいかなくなったのでしょうし、かといって数年に一冊の著書の印税だけで、市井の哲学者として暮らせるほど本が売れるわけでもなく。
もちろん、瀬地山さんのようにスッチーに養ってもらう的な人生を選ぶタイプでも彼はなく。
人並みに結婚し、子どもが生まれたら、哲学をしようとしなかろうと、この資本主義社会の中で生きていかざるを得ないわけで。
そうなると、その手段として起業して会社を経営するという選択肢は、別に不自然ではないのです。
野望とか目的とか抜きにしても。
それは、バブル崩壊からこちら、余裕のあった大企業など民間資本によるメセナ事業とか文化・芸術界隈への圧倒的な物量の投げ銭みたいなものが無くなって以降の文化人のあり方の一つみたいなものかもしれません。
論壇誌みたいなものも、大企業の意味の無さそうな広告や一定量のお情けの定期購読に支えられていたようなところはあるわけで、結局のところ、そういう寄付的な資金に依っていた活動が細るなか、直接に「亜インテリ」たる読者層・ユーザー層を掘り起こせば、十分にやれる、と見込んだところには時代を見る目があったのではないでしょうか。
ゲンロンでは観客を作る、観客を育てるところからはじめる、と意識もしていて。
副題にもあるとおり、「「知の観客」をつくる」ことを目的に活動してきたわけですね。
その結果、10年経った今、少なくともこのコロナ禍にあっても、彼の口から、「これでは文化が死んでしまうー」「補助金くれー」「アベガー」「スガガー」と言った声は聞かない。
むしろそういった界隈を冷ややかに見ているのかもしれません。
本書でも目盛りのないグラフでの提示ながら、2020年、ゲンロンカフェの売上は伸びたようですね。
もちろん会社経営として、うまくハマった部分とハマらなかった部分と。
自分に向いている部分と向いていない部分と。
まあ、そういうのはありますよね。
人間だもの。
でも、それだけで片付けていないところは、やっぱり稀有な人材ですよ。
うまくいった事業のそのハマり方も、なんとなく偶然の産物というか、去っていったかつての仲間たちの置き土産というか、あずまん語で言えば「誤配」に満ちたものだったことを、素直に受け止めていて。
それらはすべて自身の成功譚に落とし込むことだってできたわけです。
自分で書く(話す)本なんですから。
必然の選択としてのゲンロンカフェだったり会報誌だったりダークツーリズムだったり。
でも、それはしなかった。
そこが、みんなに愛されるあずまんなんだなぁ。