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白石一文『僕のなかの壊れていない部分』の文庫版を読む。
何気なく手にとったのは解説が窪美澄、とあったから。
こちらとしては、その解説を読みたくて、結果的に本文も読むことになった、的な流れ。
で、読み終えてから調べていて気づいたのだが、これ、単行本は2002年の発表。
どおりで・・・。
というのは、出版社勤務の20代の人間の生活にしては優雅過ぎると思ったから。
今も編集界隈に残る人たちからしたら、「昔は良かったなあ」と感じる日常でしょう。
今は、90年代のころと比べたら、仕事は増えたし収入は減った、みたいな感じじゃないでしょうか。
こんな毎晩飲み歩いてたら資金的にも肉体的にも破綻しますよ。
それはさておき。
主人公を一言でいうと男のメンヘラ。
たぶんこの本が書かれた当時はまだそんな言葉もなかったと思いますが・・・。
設定では、主人公の原点は、2歳の頃に動物園で母親から捨てられそうになったこと、またそれ以降も母親から十分な愛情を受けられなかったことにあることになっている。
わかりやすく完璧で、それゆえに本来は対人関係の中で培うべき他者への接し方とか間の取り方とかは、書物の中のフレーズでしか学んでいないことになっている。
高校生の時に出会ったお寺の娘、真知子さんとの関わりを除いては。
難解な文章も諳んじているあたりは、主人公の聡明さとあわせて空虚さも演出する。
でも、実際にはそういう経験をしても、メンヘラになる人もいればならない人もいて、その差はどこにあるのだろうか、と思う。
持って生まれた性格、と言ってしまうと暴力的で救いがないものの、物理的には単なる脳内のドーパミンの流れ方の特質とか、そういう単純な話なのでしょう。
とはいえ、こういう決定的に自分のことしか考えない人っていますからね。環境・経験関係なしに。
で、それも含めて受け入れてあげるわ、という女性もいますからね。
でも、それを面と向かって言われると腹立たしく、逃げたくなったりすることもあったり。
でも、そばにいて世話を焼いてくれる分には、別に嫌悪感もないから、関係は続く、みたいなのはありますよね。
好意の搾取と言うと偽悪的で、共依存というと紋切り調になってしまいますが。
物語の最終盤になって、決定的な対立があった後も、主人公と枝里子が完全に切れるわけでもないのは、そういうモードに入ってしまっているような。
話としては、「ここではないどこか」を見ている主人公と「今ここ」を見ている枝里子の対比の構図を主人公に意識させる形での記述になっていますが。
ところでこの主人公の人、著者の身近にモデルがいたのでしょうか。
文一出身で、出版業界で、こんな感じでモテつつメンヘラな人、なんてすぐに身バレしそうですが。