Amazonプライム・ビデオで『誰も知らない』視聴。
2004年作品なのですね。
カンヌでのタランティーノ監督の「やぎーら・ゆーやー」という賞発表の読み上げを思い出しますが、作品自体は見ていませんでした。
当時は仕事でもちょっと忙しさが尋常でなかった時期で、あまり映画館には足を運んでいなかったような気が。
何にせよ柳楽くんの目が良いですね。
常に伏し目がちなのは、普通に考えれば反抗期のそれであるはずなのでしょうけれども、本作の場合にはそれ以上のものを、むしろ観客の側が勝手に読み取ってしまいます。
Youのダメ親ぶりも、演技というより、むしろ普段のYouの言動を見つつ、「あー、Youならやりかねないよねー」と観客の側が補完して見てしまうという。
実際、監督もそういう目線でキャスティングしたそうですけれども。
そういう配役の妙みたいなもので成り立っている部分もありそうですが、おフランスで賞を取ったということは、そういう文脈がない人が見ても問題がなかったということなんですよね。
まあ、題材について「実話を元にした」という触れ込みは事前に知られていたとは思いますし、少なくとも見ている側にその補完はあったと思いますが。
あまり有名俳優を使っていないのでコンビニの店長が平泉成さんだったのを見たとき、当初のシーンではセリフすらなかったのにもかかわらず、あ、これ後で重要なキーになるやつ、と思いました。
というか、コンビニでの会話・事件は作品中、何度も出てくることになりましたね。
コンビニが都市生活のライフラインとなって早数十年。
親が家に居なくても、子どもたちだけでも、コンビニがあればなんとかなる時代。
お金さえあれば、お金さえ出せば、日常生活を送れる。
そんな描写の後、お金さえあれば「友達」も作れるし、遊んでももらえる、という描写へ。
その後、新作ゲームを仕入れても遊んでもらえなくなったかと思うと、そのせいもあってお金も尽き、電気・ガス・水道も止まり、家賃も滞り、普段の生活もままならなくなる、という流れへ。
あれよあれよといううちに、気づいたら深刻な事態に陥っているわけですが、その転落が淡々と流れるように進んでいきゾッとします。
人生の転落なんてこういうちょっとしたことの重なりでしかないのかも、と。
決して、子どもだからとかそういう話ではなく。
ちょっとゲーセンの誘惑に負けたとか、その程度のちょっとしたことが後々まで・・・。
もちろん全体の流れとしては育児放棄をした母親の責任が第一に来るのですが、責任感の強かった長男でも、気を抜いたらこうなってしまう、と。
で、母親のほうも、最初は毎日帰宅していたのが、だんだんと飛び飛びになり、新恋人との半同棲から同棲へ、という。
その流され方も、まあ、ちょっとしたことの積み重ねなのでしょうね。
ま、今日は帰らなくても大丈夫か、という決断、というか不作為をする日がなんとなく増えていっただけで。
結果、人が死んでいるわけですが、無戸籍児童の場合、法的にはどうなるのでしょうか。
最初からなかったものがほんとうになくなる、という形になるのですが。
ちょっとした油断で転落しかねないというこの怖さ、ゴンチチの音楽で忘れてしまいたい。