吉川トリコ『余命一年、男をかう』読了。
「小説現代」の2021年7月号に掲載された作品とのこと。
章立てとしては、Ⅰ、Ⅱ、エピローグ、の3つ。
「Ⅰ」と「エピローグ」が女性(片倉唯)側から、「Ⅱ」が男性(瀬名吉高)側からの視点で書かれています。
途中で視点が変わり、最初これは『冷静と情熱のあいだ』的な同じ時間を双方から書くやつか?と思ったのでした。
それにしては、かなりの後半部分に差し掛かってからⅡに移ったので、この分量差はアンバランスだな、なんて感じました。
でも、この作品は同じ時間の双方からの突合というよりは、時間軸はそのまま継続して、視点だけ入れ替わったという体なのですね。
無論、回想としてあのときこう思ったのだが、的な振り返りの記述はあるのですが。
というより、相手が何かを言ったようだが自分には聞こえなかった箇所だとか、相手が押し黙ってしまったところについて、実は当人はこう思っていた、みたいな振り返りをする形で回収していく様は、状況がなかなかにわかりやすかったです。
こういうのは、小説の書き方として新しいのでしょうか。
実はよく知らないのですが。
映画的というかドラマ的というか映像的。
映像的ということで言うと、瀬名吉高が髪の毛がピンク色のホストという設定ということで、Amazonレビューでも、これはモデルはEXIT兼近で間違いなし、という声が多数。
実を言うと、自分はまったくそんなことを思わず、というか、唯についても瀬名についても誰も想起せず読み進めてしまいました。
普段なら、実写化ならこの配役で、みたいな読みをしてしまうものですが。
お話としては、Ⅰ・Ⅱ部が2020年から2021年にかけて、エピローグがその3年後という設定。
時期的にコロナ文学ということになるのでしょう。
直接的にコロナに感染して苦しんだ、という意味ではなく、コロナにより生活が打撃を受けた人々の物語として。
そして、コロナによる経済危機は、皆一様に訪れたわけではなく、瀬名のような非正規(ホスト)や自営業者(飲食店)である彼の父にとっては壊滅的なものであった一方、唯のようなホワイトカラー(製造業正規事務職)にとっては、せいぜいがリモートワークが続いた、くらいのもので、ここに分断があります。
病を媒介にでもしない限りは決して交わることのない二人が出会ってからの物語で、この分断を小気味よく描くわけですが、今後もこういうテーマの作品は増えるのかもしれませんね。
Amazonレビューでは、「フェミニズム入門を読まされているような」、という感想がありましたが、著者の意図はもう少し深いところにあるのではないでしょうか。
同じ職場の中での男女差の待遇格差についてフェミニズム的な思考を持ってしまう唯のつぶやきを通して、すでに性差ではない格差(正規と非正規など)が常態化していることには鈍感であった様を浮かび上がらせる仕掛けなのではなかろうかと。
そしてそれを意識させるきっかけとしてのコロナと病、ですね。
それにしても、唯の不倫相手として描かれる男性課長が醜い。
おそらくは唯の子宮頸がんをもたらしたHPVの運び手も彼だろう、とするあたり、著者にはこの年代の男性に恨みでもあるのだろうか、と。