鈴木洋仁『「三代目」スタディーズ』を読む。
キョービ、「三代目」と言って思い浮かべるのは「三代目 J SOUL BROTHERS」くらいでしょうが、そこからどう深堀りできるのかねぇ、なんていうゲスな思いで本書を手にとってしまったわけですが、その程度の浅い先入観は、当然に著者が回収していて、あとがきにも書いています。
自身の家族の話から始まり、松下家・豊田家・天皇家の具体的な話から、維新以降の日本近代の今を「三代目」として語る視座まで、まあ、「三代目」という切り口で好きなことを好きなように書き散らした感はありますが、そういう感想もまた、著者の思惑どおりのようです。
なんで松下があるなら盛田はないのか、とか、豊田と比較するなら鮎川・本田じゃないのか、とか、色々ありますけどね。
ただ、無理して社会学の切り口で語り口を広げないほうが面白かったんじゃないかなー、という気が。
先日の小熊先生の『生きて帰ってきた男』なんて、徹頭徹尾ご自身の父上の話でしたが、むしろより深くその時代を切り取れていたような。
近代日本のあてどなさを「三代目」をタグにして考えたい、というその心意気はわかるのですが、書名にまでわざわざスタディーズと付けないと本として成立しそうにない程度には話が拡散してしまっている、と感じます。
ただ、「三代目」という、少しネガティブなところもあわせての語り口は、例えば『坂の上の雲』という言葉が感じさせる、自分たちで登りきったあとの寂寥感とは異なる、今ならではものの見方を提供してくれます。
それがどの時代の誰の「三代目」を語ったものだとしても。
まあ、少なくとも経済的には斜陽で、というと語弊があるなら、相対的には世界の中で一人負けの30年間で、二代前の遺産を食いつぶしているだけのような我々、というところから始まる視座。
著者自身も「三代目」として語れるほどには、上流の暮らしをできたということなんじゃないか、と言えるわけです。
食いつぶすだけのものを引き継いで来たのではないか、と。
まだまだ余裕ぶっこいた視線なわけで。
ご自身も、経歴としては、マスコミで数年過ごした後の社情研の院に入った口でしょうか。
謝辞に佐藤俊樹先生の名前もあったりしたので、たまに駒場まで遠征しては佐藤ゼミとかに参加していたのかな?なんて思います。
ゼミで、このような視座を発表していたとしたら、佐藤先生に、
「うーん、その構成自体「W雇上」のそれだよねぇ。(ニヤニヤ)」
「この主張自体、君が埋め込まれているよねぇ。(ニヤニヤ)」
とか指摘されていそうです。
少なくとも今、非正規のワープアだったりする層に「「三代目」としてのあなたの人生を振り返ってください」、とか言ってもまったく響かなそうで、そういう意味でも、今の社会学を引き受ける人々の浮世離れしたところを象徴しているような一冊かもしれません。