Amazonプライム・ビデオで映画『リバーズ・エッジ』を視聴。
2018年の映画ですが、登場人物のダボダボの服装だったり緑の公衆電話だったりコードレスホンだったり、90年代の世界線でストーリーを作った感じですね。
岡崎京子の原作は、世界観は90年代っぽいけどストーリーの中のあれこれはどう見ても80年代のエピソードだよね、というものが散りばめられていましたが、行定監督が諸々を取捨選択して90年代に統一した感じはあります。
監督が対抗文化を描くときの原風景がそのあたりだということなのかもしれないですが。
原作のときに感じた、世界観だけ先走っているようなところがないのは、もはや90年代も過去だからですね・・・。
当たり前ではありますが、もう2020年代です。
本作での学園生活の様子が、あのころの和光っぽいなと思ったら、エンディングの協力で和光学園の名前もあって、そのまんまでした。
エンディングはオザケンだし。
昨年夏の小山田事件以降、評判の悪い和光ですが、昔はああいう学園生活に嫉妬したものです。
当時仲の良かった女の子が和光出身だったので遊びに行ったことがあるのですが、富裕層の出来のあまりよろしくない子女らが、伸びやかに過ごしている様を見て、来てはいけないところに来てしまった感を覚えました。
ちょうど自分の父親がリストラ退職したりしてたとかいう超個人的な理由もあって、ああいう恵まれた子らに屈折した思いを持ってしまいましたね。スミマセン。
もちろん、どんなに金銭的に恵まれた子らの集まりであっても闇はあるもので、それは小山田事件でも世の多くの人の知るところとなりました。
ああいう闇と、そしてそれを鬼畜系としてあえて楽しむ風なノリも含めて、まあ、90年代ですよね。
本作もそういったあたりをうまく切り取っているのですが、この令和の御世においてそれが伝わっていないのかもな、という感想が、アマゾンレビューでも散見されます。
小山田事件で、元ネタのロッキング・オンとかクイックジャパンとかのインタビュー記事が、それだけを取り出して攻撃材料にされているのと同じような構図なのでしょう。
実はどちらの媒体も、当時妹が持っていたので読んだ記憶があるのですが、あの「ひでぇよなぁ」も含めて偽悪的に楽しむ感覚は、やっぱり今ではうまく伝わらないですよね。
というかあれ、明らかに話を盛ってますからね。
なので、それを焚きつけるような感じがありありと見えたロッキング・オンの記事には、インタビュアーの悪意を感じたりしたものでしたが。
まあ、当時はロック批評界隈からの渋谷系に対する意識なんて全般的にそんなものだったかもしれません。
まず悪意から入るというか。
渋谷系の音楽をこよなく愛していた我が妹も、小山田くんの載ったロッキング・オンを買いつつも、文句を言ってましたからね。
ああいう意識が変わったのは、電気グルーヴが「海外でウケている」体になったころからでしょうか。
もちろん電気グルーヴは渋谷系ではないですけれども、そういったロックではない日本の音楽について、海外でウケているのだから正しい、的に肯定するような風潮に、いつの間にかなりました。
変化が起きたのは、石野卓球がラブパレードでDJしたってよ、くらいの時期でしょうか。
もしかしたらそのころに、業界的にも、中の編集さん・ライターさんがゴソッと入れ替わった、とかなのかもしれませんが。
とはいえそれも渋谷御大の意向はあるのでしょう。
機を見るに敏。
ちなみに、実家には『リバーズ・エッジ』は2冊ありました。
妹の部屋と私の部屋と。
私も妹も、別々に買っちゃってたんだから仕方ないですね。
ていうかどんな兄妹?
映画『リバーズ・エッジ』は、dTV、hulu、U-NEXTでも見られます。